ep.0 全ての始まり。独りの双子。
――これは夢だ。
――わかってるんだ。これは夢だ。
――それでも、この夢の中だけでも、逢えるのなら……。
新緑に染まる森に囲まれた閑静な屋敷の傍ら――季節の花々が絢爛豪華に咲き誇る、よく手入れされた美しい庭先に無邪気な笑い声が響く。
「つぎはなにしてあそぼっか?」
「んーっと、んーっと」
さわさわと色とりどりの花が揺れ、二つの頭がぽんと飛び出す。
空の青を映すばかりでなく、赤、白、黄、鮮やかな花々の色さえも反射して七色を帯びるのは、陽光につやめく白銀の髪。
「じゃあね、おひめさまごっこ!」
耳の両脇に赤いリボンをつけた女の子が胸の前で両手を打ち合わせ、
「おひめさまどっちー?」
頭の後ろにリボンをつけた女の子が唇に指を当てて小首を傾げる。
同じ髪の色、同じ目の色、同じ顔立ち、よく似たドレス。
人目で双子とわかる幼子たちは、両親でさえどちらがどちらであるか見分けがつかないほどによく似た顔を花畑の真ん中で向かい合わせた。
青みがかった紫と、赤みがかった紫、見つめ合う瞳の間をひらりと青い蝶が横切る。
「じゃんけんする?」
「する!」
蝶に気をとられたひとりが、相変わらず首を傾げたままのもうひとりの問いかけにぱっと振り返る。
「まけたら、めしつかいね!」
「うん! せーの、」
「じゃーんけーん」
ゆるく握った小さな手が触れ合うほどに近づいて、離れる。
「ぽんっ!」
突き抜けるような青空に、高らかな笑い声が響き渡った。
うっすらと目を明けると、そこには見慣れた真っ黒な天井。
もう、どれだけ長くここに居るのだろう。
一日目、二日目、三日目は、泣いている内に過ぎていった。そして、食事がドアと思われる場所の下の隙間から差し入れられる以外、外との繋がりが無いことに気づいた。
四日目から少し冷静に物事を考えるようになった。空腹に気付き、食事に初めて手をつけたのもこの日からだった。
その食事は何故か、家で食べていた上質な小麦を使った焼き立てのパンと同じ味であることに気付き、また涙が止まらなくなったのが五日目だった。
それ以降、日付を考えることは無くなった。
何故自分がここに居るのか。
何故自由が奪われたのか。
段々と高くなっていく自分の視点と、それでも届かない、高く小さな窓から聞こえる外の音が俺を憂鬱にさせる。
そういえばこの窓も、五日目に見つけたものだった。
何もかもを失った現実と、決して触れることが出来ない外界との関わりを見つけてしまった事が、余計に俺を締め付けていった。
窓を見ると、外からの明かりは入っていなかった。
夜らしい。
ベットから降り立ち、着ていたシャツを外界に繋がるドアに叩きつけ、部屋の一角へと足を運ぶ。
開閉だけを目的として作られている簡易のドアを開け、備え付けられたシャワーの前に立った。
汗でベタベタになった身体を癒すかのように、水を浴びた。
降り注ぐ無数の水滴を振り払い、ゆるく頭を振る。
コックを捻る音とともに止んだ雨音はほんの数秒だけ狭い室内にこだまして、排水溝へと吸い込まれ消えていく。
冷たいタイルを踏む足元を見下ろせば、視界を覆う長い銀髪を同じ色の水滴が滑り落ちていく様が見て取れた。ひとつ、ふたつ。音を立てて波紋を作っていく滴を無言のまま目で追う。
足首には赤く擦り切れた枷の痕がある。両手を目の前に掲げて見れば、手首にも同様のものが刻まれている。
見るともなく手のひらへ落としていた視線を正面へと向ければ、そこにはもう別れて何年が経ったのかも知れない片割れの姿があった。
幼い輪郭を縁取り、胸へと流れる銀の髪。温められ薄く色づいた細い肢体。
その目、その髪、その指先――何度夢に見て、何度手を離したことか。
「……――、」
嗄れた声では名もまともに呼べない。
せめてとばかりに手を伸ばすと、感覚さえもおぼろげな指先が少女に触れる。
「ふゆ」
柔らかく温かな彼女の身体ではない、硬く冷たい硝子の質感。
すがりつき額を押し当てれば、彼女もまた両の手を、額を、そっと重ね合わせた。
きつく目を閉じる。
わかっている。
彼女はこんなところにはいない。
前髪を伝う水滴が、長い睫毛に音もなくのる。
わかっている。
彼女はここではないどこかにいる。
彼女の首にこんな痕はない。
彼女の手足にこんな傷はない。
ゆっくりと、ゆっくりと目を開く。
「……ふゆ」
それは鏡に見た幻。
自覚してしまえば、勝気に微笑みかけていた少女の顔が、今にも泣き出しそうな自分のそれであったことがはっきりとわかる。
同じときに生まれた、同じいのちの片割れ。
たとえ鏡に映るそれが自分であるとわかっていても、どうかこの世界のどこかにいる彼女には笑っていてほしくて。
「ふゆな、」
見ることが叶わないからこそ、その笑顔がどうしても見たくて。
痛みに震える口の端を、そっと持ち上げる。
「いま、しあわせ?」
睫毛に溜まった水滴が、するりと目の端を滑り落ちる。
鏡の中の片割れが、そっと、そっと、愛しげに微笑んだ。
私は、何かを失う為に生きているのでしょうか?
お父様が亡くなられたあの日から、私の生活は大きく変わってしまった。
それでも私が今まで通りの生活を続けていられるのは叔父様がそれを支えてくれたから。
そうじゃなかったら今、私がこうやってこの家に住んでいること自体がおかしい話ですもの。
しかし、状況は変わっていっている。
「御嬢様、御食事の用意ができました」
変わったのは、この人もそう。
昔から居た爺やはお父様が亡くなられてから、叔父様が解雇してしまった。
その他に、一緒に遊んでくれたメイドさんも、一緒にお菓子を作ってくれた料理長も、私の知る人は皆居なくなってしまった。
「……御嬢様?」
今までこの家で働いていた人達と同じ服を着て、
「どうなさいました?」
全く違う人達が、
「御嬢様?」
同じように私を呼ぶ。
「わかりましたわ」
この状況はどう見てもおかしい気がする。
昔はもっと楽しかったはずなのに。
その楽しいという感情を何処かに忘れて来てしまったかのような寂寥感ばかりが私を圧迫している。
昔はもっと自然に笑えたはずなのに。
目の前に運ばれてくる豪勢な料理の数々を見ても、心は躍らない。
口に運んだスープの味が分からない。
「なんで」
独りきりの部屋で。
「なんで、ここに」
料理から視線を外す。自然とそれは自分の右隣に流れ、四年間常に自分の側にあり続けたその姿を思い描く。
「あなたが居ないの……?」
不意に視界が歪んだ。
堰を切ったように溢れる涙を止める事など出来ない。
落ちた涙はスカートに染みを作り、腿の上に置いていた手は、知らぬうちに爪が白くなるほど硬く握られていた。
十年前。
お父様が亡くなられたあの日から。
全ては、端にワインを垂らした純白のテーブルクロスのように……ジワジワと誰かに違う物へと変えられていっている。
染め上げられた白は、純白に戻ることなど出来ない。
私の生活も全て誰かの手によって染められてしまった。
戻ることなど出来ない。
戻ることなど、許されない。
昨日降っていた雨が嘘のように、晴れ渡った夜に浮かぶ月だけが、何も変わらずにそこに在り続けている。
そうとしか、思えなかった。
不意に部屋をノックする音が響く。
涙を拭いて、入り口を見やると、そこには二人の人影。
全く見たことの無い二人だった。
男の方が一歩前に出、恭しく礼をする。
「夜分遅くに申し訳ありません、御嬢様」
礼の際に前に流れた、一房の長く青い髪を右肩から胸元まで遊ばせ、男は顔を上げた。
薄い眼鏡の奥に見えるアイスグリーンの瞳。
「僕は、春日亮司と申します。本日付でこちらで働かせて頂く事になりました」
ゆっくりとこちらに歩み寄り、片膝をついて私の右手に軽く口付けた。とても自然な動作。
この人はこういった事に慣れているのかもしれない。
「これが、貴女の叔父様からの書状です」
内ポケットから封書を取り出し、渡される。
中身を確認すると、叔父様のサインと、家庭教師、という文字が目に入った。
「そちらの方は?」
亮司と名乗った男の後ろに立つもう一人、とても美しい女性。
「彼は秋野稔。僕の部下であり、今回彼もこちらで運転手として働かせて頂く事になりました。秋野、自己紹介を」
彼?
「はい、秋野稔と申します。御嬢様、今日からよろしくお願いします」
柔らかな微笑と共に述べた彼の声は明らかに男性のもの。しかしその美貌は女性のもの。
不思議なアンバランスが、彼の魅力のようであった。
深く詮索する気も起きず、私は小さく頷き自室に戻った。
ここまで紅く染まってしまったのならば、もう、染められていくのを拒むことは出来ないのではないだろうか。
幾度目かの朝が来るも、俺の心は晴れる事を知らない。
「さぁ、時間だ」
男が枷を持って隣に立っている。
何度も何度もそれを嵌められ、別の部屋へと目隠しで連れて行かれ、そしてこれを外されて開放されるのは夕食時。
何度も何度も繰り返されてきた、俺の日常。
それ以外に何の変化も無い。
そうまでして彼らが得たい情報は、財産についての鍵。俺の両親が残していった、目に見える財産と、目に見えない財産。
それを得ようとするためには、まず、その在り処から探さねばならない。
土地の権利を得るために土地の権利書を探すように、金品、宝石、そういった物を得るために、その在り処を知っていそうな者を拉致、監禁しているのだそうだ。
それは誰がしているのか……。
一人の人間を拉致、監禁し、詰問をも続けられる人物。
それが出来る人間は限られている。……単純なことだ。
俺は、目隠しを外され、いつもと同じ部屋に居ることを確認し、目の前に居る人物を睨み付けた。
「今日は直々に詰問ですか。叔父様」
そう。俺を監禁しているのは、俺の父親の弟。
「お前の父、俺の兄が死んで十年経った。……もういい加減話したらどうだ? そこまで財産が大事なのか?」
俺が四歳の時に父は死んだ。
すでに十年も経っていたのか。道理で背も伸びるわけだ。
彼女は、どれだけ美しくなったんだろうな。
肩口まで伸びた赤紫色の自分の髪を見つつ、小さくため息を吐いた。
「貴方こそ、よくもまぁ十年もボクの父親のお金を狙ってますよね。父が残した財産分くらい、もう稼いだんじゃないんですか?」
叔父は顔をしかめ、机に置いていたキャットオブナインテイルを横凪に払った。
従来拷問用のそれは同時に複数の革紐で広範囲を叩き付ける。
叔父の放ったそれは俺の左耳から口元にかけてを痛打し、何本もの蚯蚓腫れを作り出して通り過ぎていった。
「最早この程度では顔色すら変えんか」
さして詰まらなそうに言う叔父に対抗的な視線を投げかけ、嘲笑うかのように言ってやる。
「貴方に経営は出来ませんね。すぐ暴力に出る。……よほど良い事務官が居るんでしょうね?」
次に飛んできたのは体重を乗せた拳。
簡単に壁に叩き付けられ、叔父の足元に崩れ落ちる俺の腹部に、突き刺さる革靴。
激昂と共に息を荒らす叔父の革靴に唾を吐きかけてやった時、それが唾ではなく血だと気付き、小さく肩をすくめた。
もう一度同じ箇所に蹴りが入る。
いつものパターンだ。
そう、いつもの……。
「会長、これ以上は……」
俺の『管理』をしている男が間に立ち叔父を止める。
「……フン、痛めつけておけ」
この男が来るといつもこのパターンだ。
最初にいくらか手を出したかと思うと、後は他人任せ。
こういった感じで週に一度のペースで俺を殴り、蹴りに来る。
そうだな。もう何度もこういった体験をしていれば、なるほど。慣れるようだ。
しかし、今日は一つだけ情報を得られた。
どうやら俺があの家から姿を消してから十年もの年月が経ってしまっているらしい。
本当に、本当に十年もよく耐えたな。叔父も、俺も。
俺なんかに構わずにさっさと殺してしまえば楽だったのに、それをしないのは、親父の隠し財産があるからだろう。
だからこそ……。俺は生かされているのだ。
そして、きっと、冬菜も。
だが、俺のような生活では無く、幸せに、笑顔を絶やさずに生きていて欲しい。
例え、叔父の手の元にあったとしても、
苦しむのは、俺だけで良い。
幸せがあったらきっと、誰だって掴みたいでしょう? 私にとっての幸せは、ゆきと居ること。……でもそれは届かない。掴めない。
「御嬢様、この問題、間違ってますね」
青い髪を今日は全部下ろし、亮司は冷静に答え合わせをしていた。
今の授業は数学。
「あぁ、ここは……何故難しい解き方で当たっているんでしょうね……。もっと簡単な解法があるのに」
次々に問題に赤い筆跡が動く。
ふわふわと動く青い髪を視界に入れ……ふと口元が緩んだ。
「邪魔ね」
「はい?」
意味がわからなかったらしい。顔を上げた亮司に、私ははっきりと言い放った。
「その髪邪魔」
「あぁ、すみません。いつも結んでいるゴムを何処かに無くしてしまって……。今度買ってきますので今は御了承を」
少しばかり悪戯をしてあげようか。と、本当に久しぶりにそんな気持ちが沸き起こってきた。
「結びなさい」
「え、いや、ですから、ゴムが」
私はクローゼットを開け、その奥にある小箱を取り出した。
その中に入っているのは赤いリボン。
「これで」
「リ……リボン、ですか?」
それを受け取り頬を引きつらせる亮司。
「ツインテールね」
もう一つ手渡して、追い討ちをかける。
「ツ、ツイン……」
「嫌とは、言わせないわよ?」
「はい……」
半泣きになりながらモソモソと髪を纏め始める亮司を見ていると、どこか懐かしい気持ちになる。
いつか何処かに忘れてきてしまったようなそんな感情。
いつの間にか忘れてしまっていた暖かい気持ち。
そんな気持ちが付きまとう時、決まって私の側には彼が居た。
いつも一緒で、半身といっても過言ではない存在。
「出来ましたよ……おじょうさ、ま……?」
眼鏡ツインテールの亮司がこっちを見ている。
いつの間にか人前では見せないと決めていた涙が零れ落ちる。
隣に亮司がいるというのに。何故か涙は止まらない。
「……どうしました? ま、まさか、そ、そんなに泣くほど怖いですかっ!? これ!!」
自分の頭を指差す亮司に、ふるふると首を振る。
「たいの……」
いままでずっと溜め込んでいた気持ちが爆発するように膨れ上がる。
「逢いたいの!! 雪菜に逢いたいの!!」
四歳の頃突如居なくなった自分の半身。
叔父からは死んだと聞かされているが、私はそれを信じていない。
夢と思い出ばかりの存在になんか絶対になっていない。
確信は無くても、信じている。
雪菜は、きっと。どこかで。
涙が止まらないまま顔を伏せた私を気遣ったのか、亮司は無言で席を外した。
「秋野……ちょっと話がある」
「亮司?」
庭の手入れをしていた秋野の元に歩み寄った亮司は、何事かを囁く。
秋野は小さく頷き、彼の顔を見……。
「可愛い……」
「な、なにがだよっ!!」
彼の髪を惚けた顔で見詰めたのだった。
亮司の声で目が覚めた。
泣き疲れていつの間にか寝てしまっていたらしい。
「御嬢様、おはようございます。街に出ましょう」
簡潔にそれだけを言うと、私の腕を引いて屋敷の出口へと向かう。
「ちょっとまって、亮司、私は」
「知ってますよ。叔父様から、お屋敷からの外出を禁止されているんでしょう?」
「それを知っているなら何故?」
亮司は急に足を止め、身体を反転させた。私の目の前で赤いリボンで一房に纏めたポニーテールがふわりと揺れた。
「御嬢様」
人差し指をピッと立て、私の目の前に突きつける。
彼のアイスグリーンの瞳がにっこりと微笑むのを見、嫌な予感が走る。
「厳しく決められた決まり事ほど、破っていいものなのです」
「よくないでしょ!」
反論も空しく、家の外に引っ張り出され、久方ぶりに外の空気に触れる。
緑の匂いを感じたのは、何年ぶりだろうか。
この空の下に、何処かに雪菜は居るのだろうか。
亮司に引かれるまま歩いた先には小さいながら高級な車が止まっていた。ドア付近に秋野が立っているのが見える。こちらに気付くと恭しく礼をし、ドアを開けてくれた。
車に乗り込むのとほぼ同時に亮司は助手席に腰を下ろした。
運転手は秋野。
意外だ。この人運転できるのか、と、目を丸くしているのを亮司に見られたらしい。
「秋野の運転は一級品ですよ。僕が保障しましょう」
決めた。これから亮司の笑顔には疑いをかけることにしよう。
しばらく街を走った後車は速度を落とし、ある店の前で止まった。
どうしていいか分からずボーっと外を見詰める私を亮司が外に促す。
「さぁどうぞ御嬢様。こちらです」
「ここ、は?」
「この街で人気のアクセサリーショップです。ここにご案内したのは、このリボンの御礼ですよ」
軽く礼をして言う亮司に、戸惑いを覚えつつ店を見る。
店内に有る物が全て宝石のように輝いて見えた。
「入って、いいの?」
「勿論」
亮司は慣れた手つきでドアを開け、手で中を指し示す。
私が恐る恐る足を踏み入れたのを見て、微苦笑していた。
「本当に何も買わなくて良かったのですか?」
不服そうに言う亮司に、こちらも頷き返す。
「そのかわり、また時々連れ出してくれると嬉しいわ」
今日は本当に楽しかった。
一つの店を見るのに三時間以上をかけ、商品一つ一つの値段まで覚えてしまうのではないかというくらいにはまり込んでいた。
やはり楽しい時間ほど早く過ぎ行くものなのだと、いつもの日常とは違った時間の早さに自分自身驚いていた。
だがそこには、やはり一縷の罪悪感もある。
彼が得られた筈の幸福を今、自分だけが体験しているのではないかという、恐怖にも似た絶望。
その感情を一時でも拭い去ってくれたのが、亮司と秋野だった。
今はまず、感謝の気持ちでいっぱいだった。
その時だった。
車を停めているという場所まで歩いていた私の目に細い路地が映った。
そこに一瞬だけ見えた物を、瞬間的に脳内で再生しなおす。
人……?
咄嗟に足を止め今来た道を戻り、路地裏を覗き込んだ。
濃い緑色の草や葉を模した様な模様の服を纏った男が、苦しそうに壁にもたれていた。
「あなた、大丈夫かしら?」
何かあったのかと、男の顔を下から覗き込むように伺うと、脂汗の滲んだ顔に細い呼吸のままその男が薄っすらと目を開いた。
ネコか、ここより西方の国に居るといわれるトラを連想させるような攻撃的なダークイエローの瞳だった。
男の息がふと和らいだかと思った次の瞬間、その瞳からも攻撃的な色が無くなっていった。
「辛いならお医者様に……」
「御嬢様、そのような者に関わると余計な手間ばかりがかかりますよ?」
怒ったような口調で亮司が後ろから声を掛けてきた。
ツカツカとその男に詰め寄り、値踏みするような鋭い眼光で、亮司は彼を睨み付けている。
「でも亮司。この人辛そう……」
「そんな人間、この国に五万とおりますよ。一人一人相手にしていたら、何年掛かっても終わりません」
私の意見をあっさりと読み取り、そして瞬間的に却下を言い渡す亮司。
だが、ここで引くのは躊躇われた。
「でも!」
「御嬢様……。時間です。行きますよ?」
呆れ返った様な眼差しをチラリと向けられ、亮司は秋野と共に歩き出していた。
何度か振り返りつつ亮司たちの後を追うが、どうしても諦め切れなかった。
「やっぱり気になる」
踵を返して駆け出す私の背後で、やれやれと亮司が大きな溜息を吐いているのが聞こえた。
この人はこのまま放っておいてはいけない。
何もかもに裏切られたような、私と同じ目をしていたから……。
もし目の前に一筋の光が見えたらどうする? 俺なら迷わず進むね。彼女に逢うために。
暗がりの部屋の中で眼鏡をかけた青い髪の男が電話をしていた。
その相手は自分を雇っている男。いうなれば傀儡の操り師。
「そこを何とかできませんかね。御嬢様は彼を望んでいます。……彼女の心の傷は私達の予想以上に深いものでしたよ?」
眼鏡をクイッと上げて、柳眉を若干吊り上げる。
「誰かが彼女の実弟を拉致、監禁したため、ですよ?」
星空を見上げながら不適に微笑む。
「貴方は結局、先代の隠し財産が欲しいんでしょう? ならば、僕に一考があるんですがね」
それは何だ? と問いかける返答。
少しは自分で考えてみたら良いのでは無いか、と思いつつ、彼は口を開く。
「弟を解放したらどうでしょう?」
電話口に反論の声。
曰く、そのようなことをしたら、いつ、先代に男の子供が居たと他の氏族にばれるか分からない、と。
「遅いんじゃないですか?」
にやりと口元を吊り上げて男は嗤った。
「すでに嗅ぎ付けている奴らが居るようです。僕の仕掛けた情報網によれば、今夜にでもその身柄を奪う計画があるとか」
慌てた声の後、通話終了を告げる規則的な音が流れ、男は受話器を置いた。
「さて、上手くやってくれよ……。秋野」
コンコンコン……と、何かが叩き付けられる音がしていた。
ドアを叩く音でもない。壁を叩く音でもない。
今までにあまり聞いたことの無い類の音だ。
俺はベッドから降り、痛む腹を庇いつつ歩いた。
部屋の中央、どんなに背が伸びても届くことの無い天窓のある位置まで歩み寄り、その音は窓からしているのだと気付く。
月を背に一人の女性が窓を叩いているように見えた。
あまりにも現実離れしているその光景に、俺は自分の目を疑った。
言葉を発することを忘れるくらいに。
その影は俺を見やると、手を内から外に振り、離れろ、と合図を送ってよこした。
それにあわせて離れると、なにやら薄いフィルムのようなものを窓に貼り始めた。
フィルムを張った後にそれを上から殴りつける。
「っ!!」
窓ガラスの弾ける様子を予測していたが、いつまで経ってもガラスは降ってこない。
更にガラスの割れる音すら鳴らず、小さくガキッ、と音が聞こえただけだった。
フィルムを剥がしながら同時に割れたガラスを回収し、窓は完全にただの空間となっていた。
「早く。人が来ます」
上の影からの声。
明らかに男の声に多少の驚きを感じつつも、降ろされたロープにしがみつく。
このロープを下ろしているのが誰かなんて知ったことじゃない。
もっと俺がこれから酷い目にあうかもしれない。
でも、それでも……。
もう、この部屋だけは嫌だった。
少しでもチャンスがあるのなら、自分の足で歩きたかった。
彼女に、逢いに行きたかったんだ……。
元々天窓があった場所まで上りきると、金色の髪をした美貌の男性が待っていた。
「説明は後です。行きますよ、まずこれとこれを」
渡されたのは本物と見間違うほど精巧に作られた栗色の髪をしたカツラとダークグレーのカラーコンタクト。
四苦八苦しながらそれをつけると、金髪の男性が手直しする。
「よし」という声と共に彼は立ち上がり、屋根の樋に向かって猛然と走り出した。
「早く!」
という声だけを残し、飛び降りる。
「ま、マジで……?」
周りは漆黒の闇。ここがどういう立地で建っているのかも分かっていない。
恐怖ばかりがまとわりつくが、何より折角自由を得られたのだ、無理をしてでも、今は逃げなくてはならない。
階下ではなにやら騒がしくなってきた。こちらの動きに感づいたらしい。
「くそ……でも、やるしか」
猛然と走り出し、先程の男性と同じ軌道で飛ぶ。
その先に、今居る位置より少し下に別の屋根が見えた。
体が重力を感じ、一気に落下を始める。
鋭角に近い放物線の軌道を描いたまま、俺はその屋根に激突するように着地した。
何度も転がり、勢いを殺す。
体中が痛んだが、そんなこと、気にしていられなかった。
「大丈夫ですか?」
問い掛け、手を出してくる金髪の男。
「あんた、何者?」
「後で答えましょう。今はまず逃げること」
言って俺を立たせ、屋根伝いに走る。
「あんたの雇い主は?」
走りながら問いかけると、律儀にも応えてくれた。
「春日家。宗家の分家に当たる氏族の……代表です」
「今度の尋問相手は、氏族か」
少し肩を竦めながら言うと、彼は振り返りながら少し笑った。
「えぇ。今度は逃げられません。……というより逃げる気力も失うでしょうね」
後ろから同じルートを使って誰かが追いかけてくる。
深夜の逃走劇は、始まったばかりだった。
そして全ては一つの場所に集約する。
小さなノック音と共に「御嬢様、失礼いたします」と、亮司の声が響いた。
彼が屋敷から私を連れ出して買い物に連れて行ってくれてから、四日が過ぎようとしていた。
「何の用? まだ勉強の時間ではないと思うのだけど?」
少々うんざりした瞳を向けてやると、亮司はいつもの笑顔を崩さずに口を開いた。
「今日は勉強は無しです。それすらも凌駕する出来事が沢山ですから」
「どういうこと?」
こちらの問いに答える前に、亮司はドアの向こうに向けて「入っていいぞ」と声を掛けた。
亮司のこういう態度、後で注意してやろうか……。
懸念と疑惑が織り交ざった心境でドアを見つめていると、開いたドアから白い短髪の男が入ってきた。
痩身にして長身。しかしその身体からは、そこはかとなく力強さを感じさせる、が、それも今はどこかシュンとしていた。
「自己紹介を」
亮司の一言に、彼を睨み返した後に、男はこちらを見やって口を開いた。
そのダークイエローの瞳に、見覚えがあった。
「あ、貴方あの時の」
「御嬢様……、先日は私の命を救っていただき、有難う御座います。私は右近、瀧と申します」
「タキ?」
「はい」
二人の話の合間を見つけ、亮司が瀧を補足する。
「彼は先日、長年勤めていた会社をリストラされましてね。その後暴漢に襲われ、身包み剥がされお金も無くなり、命までをも失おうとしていた時に御嬢様に助けられたそうです。」
「何だその設定は」
睨み付ける瀧を笑顔でかわし、彼にしか聞こえない声で囁く。
「軍関係者だとバレたら、この家の持ち主に首を飛ばされるぞ? 比喩でも暗喩でもない。実際に飛ぶぞ?」
「むぅ……」
押し黙った瀧を見、亮司は更に続ける。
「という訳でございまして、彼はこの家で雇われることになりました。執事兼、御嬢様のボディーガードとして」
「私の?」
「守る人……他に誰が居ます?」
わざと聞き返した亮司に小さく溜息を返し、私は頷く。
「そう。それじゃ、よろしくお願いね。瀧」
「りょうか……かし、かしこまりました」
「後でマナーから指導してやろう」
小さく皮肉った亮司に、瀧は殺意すらこもった視線を向けるのであった。
「あぁ、それと」
部屋から出て行こうとした亮司は、思い出したように顔だけ戻し、部屋の中にもう一度入ってきた。
「午後からお客様が参ります。身なりを整えておくとよろしいかと」
「お客様?」
聞き返した私に、亮司はにこりと笑い、
「秋野が迎えに参ってます。午後までお待ちを」
そう言って部屋から出て行った。
余所行き用のドレスを纏い、意味もわからず待機させられ、私は少々不機嫌になっていた。
亮司は何かを隠している。
それもあの顔はサプライズパーティでも開くかのような。
「失礼します」
ノックと共に聞こえたのは聞いたことの無い声。しかしそれに何処か不思議な既視感を感じた。
入ってきたのは自分と同じくらいの背丈の少年だった。
どちらも声を出さない。
何を言っていいか分からない。
「あぁ、ごめん、これじゃ分からないよな」
目を指でいじり、何か膜のような物を外し、栗色の髪の毛を無造作に引っ張ると、髪が外れた。
目の前に現れたのは、自分。
執事の格好をした、自分。
鏡を見たかのように、二人は言葉を失い、ドレスを纏った私は一歩、二歩と歩み寄った。
夢にも見た、過去を求めた。
絶対に。もう二度と手に入らないと思っていたのに。
困ったように笑いながら、執事姿の俺は、一歩、二歩と歩み寄った。
夢にも見た、彼女の幸せだけを願っていた。
絶対に。もう二度と触れられないと思っていたのに。
その現実は目の前にあった。
おずおずと二人の手が触れ合い、それらは絡まりあう。
「雪、菜……?」
「うん……。俺だよ。冬菜」
雪菜の青紫の瞳に涙があふれる。
「雪菜っ!! ゆきなぁっ!!」
ぎゅっと抱きついてくる彼女を抱き返し、何度も頷く。
「聞いて、冬菜」
雪菜は彼女の髪を撫でながら、諭すようにやさしく呟く。
「約束を果たしにきたんだ、俺は」
「やくそ……く?」
小さく頷き、彼女の顔を見る。
「じゃんけん、しただろ? お姫様ごっこ」
「うん……」
「だから俺は、召使いになりに来たんだ」
「うん……うんっ!」
何度も頷く彼女をもう一度抱きしめる。
いつか夢見ていた場所に、今自分が居ることを、心から噛み締めた。
「一生、俺は冬菜の召使い、やってやるからな」
泣きじゃくる片割れに、もう一人の自分に。
心からの気持ちを呟く。
無くさないように。失わないように。
「だからもう。離れない」
もどる。