とある自称物書きの日常


「うぅ〜……」
 パソコンの目の前で一人の男が唸っていた。
 ここ三日間伸びっぱなしの髭を気にする事も無く、男はバリバリと頭を掻く。
 ここに引っ越してくるまでは太っていると言うのが他人から見た第一印象だったが、今となっては肉が落ち、痩せたと言うよりやつれたと回りから言われる程になっていた。 この前の検診では去年に比べ八キロも体重が落ちている事に嬉しいような悲しいような感覚を覚え、後から一人で打ちひしがれていた。
 髭と同じで伸ばしっぱなしの髪が目に掛かる。 舌打ちをし、それを苛々しげに書き分け、一点を注視する。
 目の前にはディスプレイに映されるワードソフトの白紙の原稿。
「……」
 男は、さして男前と呼べない顔を歪めた。 原稿の提出期限は明後日。 未だに原稿も真っ白なら、男の頭の中も真っ白だった。
 恋愛物にするか、はたまたファンタジーにするか。 いや、SF? それとも学園ものか? 基本プロットも決まらない状態で、机に頬杖をついてディスプレイを見つめる。 空いている手の人差し指が、書き出し位置を告げる縦線の点滅に合わせて一定のリズムを机に刻みつけている。
 いや、現代物や歴史物とか……。 ここは思い切って締め切り無視して田舎にでも逃げるか。
 一番駄目な選択肢が浮かんだ瞬間、男は首を振って座りなおした。 時刻は朝の五時。 窓越しに白みかけた空を見上げ溜息を吐いた。
「今日も大学…行かねぇとな……バイトは、休み、だっけ?」
 寝ずに文章を打ち込み、学校に出て講義中寝る。 そして夜はバイト。 という、なんとも自堕落な生活を始めて早二年目。 落とした単位が二桁に達した時、男は自分の人生に疑問を持ち始めていた。
 横に置いてあったタバコを取り出し咥える。 昔同じ学校の仲間と一緒にダブルボーカルユニットを組んでいた時の、バンドオリジナルのジッポライターで点火。 最初の紫煙を肺一杯に吸い込み、無意識の内にディスプレイ目掛けて煙を吐き出した。 一ミリの軽い物だが、強いメンソール感が気に入っている。 机とパソコンの間に設置しておいた空気清浄機が起動し、即座に煙を正常な空気に換えていった。
 
 結局筆は進まず、男は朝を迎えた。
 
 
 
 朝八時三十分。 目の下に凄まじい隈を作りながら、男は少し早めに登校した。
 自分が籍を置いている文芸サークルの教室に顔を出す。 そこには既に二、三人の生徒が来ているようだった。
「よう大滝、不景気そうな顔してるじゃねぇか」
 大滝は自分の名を呼び、近づいてきた自分よりいくらか小柄な男に手を上げて挨拶すると、入部以来いつの間にか自分の所定位置になっている机に鞄を置く。
「なんか、良いプロット思いつかなくってさぁ。 また徹夜だよ」
 鞄から時間割を取り出す。 一時間目は一〇三四教室である事を確認し、小柄な男を見やった。
「スランプか? いい加減脱出しろって」
 かなり無理なことを言われ頭を抱えた。 下を向いたまま重くなってきた瞼をぎゅっと瞑り、強引に眠気を追い払う。
 顔を上げ、相手の顔をまじまじと見つめ返す。 何処からそんな余裕が出てくるのだろうか。
「榊こそ今回のサークル誌に載せる原稿出来たのかよ」
「もち。 締切日を聞いた一週間後には出来てたよ」
 胸を張って言う榊に、大滝は力の無い笑いを見せた。 自分にもそれくらいの文章能力が有れば、今頃は締め切りの事など考えずにぬくぬくと暖かい布団で寝られていた筈なのに…。
「どんなだよ? 見してみ?」
 大滝が挑戦的に言うと、榊は自分の鞄を持ってきて大滝の目の前で開けた。 中をごそごそと探り、束になった原稿を取り出す。
 それを受け取り、大滝は所々流しつつもその文章を読み始めた。
 壮大なスケール……ではない。 一介の高校生の話だった。
 好きになった女の子との甘く切ない恋の話。 やっとお互いが相思相愛の仲になるが、突如主人公に聞かされる彼女の病気。
 最も盛り上がる部分に差し掛かり、主人公は叫ぶ。
『助けてください!!』
「――って、これセカチューじゃん」
 半眼になりつつも、榊の顔を見る。 榊は満面の笑みで頷く。
「ちょこちょこいじってるんだぜ?」
「贋作は駄目だろ」
 あっさり言い捨てた大滝に榊は不満そうに唇を尖らせた。 何か言いたい事でもあるかのように、大滝を睨む。
「だってさ、良い物は真似しろって言うじゃん」
「言うけど、これは……その範疇を超えてるって言うか、まんまじゃん」
 榊に原稿を返しつつ、大滝は肩の力を抜いた。 手をあてがって首の骨を鳴らす。 ごきごきと鈍い音が響いた。
「な〜んてね。 本物はこっち」
 先程の不満げな表情とは打って変わって、榊は笑顔のままもう一枚の原稿を取り出した。
 先程と同じようにいくらか流しながら読んでみる。
 内容はかなり真面目。 いや、むしろ面白い。
「ふぅん」
 あえてその感情を露にしないまま、大滝は原稿を返す。 ここまでしっかり書けているのが逆に悔しかった。
「どうよ? 感想は」
 自信たっぷりに聞いてくる。
 大滝は頷きながら「面白い」とだけ返した。
「何かそっけねーな」
 笑いながら言う榊に大滝は顔をしかめた。 それだけ余裕が有るんなら、スランプで悩んでる俺に何かひらめきを与えてくれたって良いじゃないか。
 俺は悪戯じみた表情で榊を見た。
「榊先生、俺スランプなんですけど、何か良いお題とか有りませんかにぇ」
 半分本気、半分ふざけた感じで言ってやると、榊はニヤつきながらも、顎に手をあててなにやら考えていた。 そして唐突に、
「ポルノ――」
「駄目」
 本気で否定してやる。
「何でぇ〜?」
本気でがっかりしている榊に、大滝は頬を引き攣らせながらこめかみを押さえた。 こいつに相談した自分が信じられなくなってきた。 微かに感じた頭痛を振り払う。
「んな事したら、サークル活動止められるぞ。 いや、それ以前に俺が部長からクビを宣告される」
 榊はもう一度虚空を見上げ、なにやら考えていたが、唐突に人差し指をびっと立て、
「じゃあ十八き――」
「かわんねぇよ、さっきのと」
 榊は人差し指を立てたまま固まった。 大滝も半眼で突っ込んだまま固まる。 お互い固まったまま時間だけが流れる。
「ん〜……仕方ないな。 こうなったら、自分の話でも書けば?」
「自分の?」
「そう」
 頷いた榊に対し、大滝はその言葉の意味を理解出来なかった。
 自分の話? 小説で?
「それって、エッセイって言うんじゃ…」
 またもや突っ込みを入れようとする俺に向かって、榊は口を開く。
「だから、原点を自分にするんだよ。 その世界では自分はどんなに強くもなれる。 どんなに弱くもなれる。 女にだってなれる。 そこからファンタジーに走るも良し。 学園物をやるも良し。 歴史物に踏み込んだって良いだろ?」
「感情移入しろって?」
 眉根を寄せて呟く大滝に、榊は笑った。
 時計が九時を告げようとしている。 そろそろ講義が始まる頃だ。
「いやいや、それも大事だけど。 主人公の設定を自分の今までの人生の一部分から作ってみるんだよ。 大滝、お前楽器出来たよな?」
「あぁ。 トランペットをちょっと、な」
「それ。 主人公はトランペットが吹ける。 ……いや、全く吹けない主人公がバンドに入ってどうのこうのって言う話も書けるだろ?」
 大滝は納得して二度三度と頷いた。 講義開始のチャイムが鳴り響く。
「あ、そろそろ行かないとな」
 そう言って榊は鞄を持ち上げた。 大滝に「また後で」と告げると、さっさと教室から出て行ってしまった。
 大滝は床を見つめながら教室へと向かった。 妙な高揚感が心の中を彩っている。
 主人公を自分の分身にする。 それはそれで面白いかもしれない。 書いていく内に自分の知らなかった自分を知ることが出来るかもしれない。 大滝は顔を上げた。 顔には微笑が浮かんでいる。 もし、何も知らない人がこの状態の大滝を見たらかなり気まずい事になるが、幸い廊下には大滝以外の生徒は歩いていなかった。 大滝は立ち止まり、周りを見回した。
 リノリウムの床、コンクリートで固められた壁、切れかけの蛍光灯。 講義をする声。 外では桜の木が風にそよいでいる。
 もしかしたらここも主人公の動く世界になるかもしれないのだ。
 大滝の足は教室ではなく校門に向けられていた。 今なら何か書けるかもしれない。
 徒歩五分で着く自宅に飛び込むように帰宅し、パソコンの電源をつける。 ワードソフトを起動し、未だ白紙の原稿を見つめた。
 どうせなら、まんま自分を主人公にしてみても良いんじゃないか。 そんな考えが胸中を駆け巡る。 生まれて初めて見た物に触れるような緊張感が指先に伝わる。
 震える手で、キーボードに触れる。
 
 書き出しは、唸り声からにしようか。



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