輝け、世界。
あーあ、まただ。
目の前には染め上げられたシーツ。
赤と呼ぶには沈みすぎていて、黒と呼ぶには明るすぎる。そんな『赤い』シーツ。
何回目だろう。二回目? 三回目?
数えるのも億劫になっている自分に気付いて、少年と呼ぶには成長していて、青年と呼ぶには若すぎる男は軽く項垂れた。
「ねぇ? いつ出かけるの?」
枕元で少女は彼に呼びかけた。さらりと流れる肩口までの栗色の髪が、彼の目に鮮明に映った。
「さぁね、いつ頃が良いかな?」
彼は掛けてある古ぼけた毛布を足の先で柔らかく蹴り飛ばすと、立ち上がって、全体の三分の一だけ赤く染まったシーツを布団から剥がした。ペリペリと滑稽なほど情けない音を立てて、シーツが剥がされていく。くそ、布団にまで染み込んでやがる。
彼の眼前に広がるシーツの赤い染みを見て、彼は小さく溜息を吐いた。
「お出かけしたいな」
大きな瞳を輝かせて少女は彼に言ってくる。
彼はいつものように困ったような笑みを浮かべて、シーツを洗濯機に投げ込んだ。
「僕もしたいな。出来れば早く」
手馴れた手つきで洗剤を投げ込み全自動の機械を動かし始める。
「それじゃ、行こうよ」
何の屈託の無い笑顔で言う少女に、彼は肩を竦めた。そんなに簡単に出かけられたら、どれほど楽かな?
彼は灰色の空を切り取った小さな窓を睨み付けながら、小さく首を振った。
この世は腐ってる。
自分がどれだけこの世界に望まれているのか。
自分が生きる事に何の価値があるのか。
彼はしまっていた予備のシーツを取り出して布団に掛けなおした。不覚にもシーツの白が、灰色の空の濁った雲よりも美しいと感じてしまった。
「ねぇ、お出かけしないの?」
「まだ行けそうも無いかもね」
彼はゆっくりと布団に身を横たえた。
いつから自分は布団に寝て、起きて、洗濯機を回す生活を始めたのだろう。
最後に満足な食事を摂ったのは、いつだ?
それを考えることすら億劫で、彼はゆっくりと目を閉じた。
眠い訳ではない。無気力な訳でもない。
でも彼には目標が無かった。
生きる目標が無かった。
いや、無くなったと言う方が確実だろう。
いつ無くなったかは、忘れた。
彼は目を閉じたまま傍らにいるであろう少女に向かって口を開いた。
「なぁ、お出かけ、しよっか」
枕元に立っていた少女は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。一緒にお出かけ、しよっ!」
いつだったか、周りのニンゲンは彼を疎外した。
いつだったか、彼の周りにはニンゲンが寄り付かなくなった。
いつだったか、彼は未来を諦めた。
それが彼の、唯一の生き方になった。
「さぁ、連れて行ってくれないか? 僕を」
少女は彼の手を取った。
薄っすらと明けた彼の目には、その微笑ばかりが映り、鮮明に脳裏に深く焼きついていく。
彼は少女越しに濁った空を見た。
濁った世界、元は美しかったはずの世界。
「ねぇ、何処にお出かけしたいっ?」
手を握り無闇やたらにその手を上下させながら、少女は彼に問いかけた。
「綺麗で、皆が幸せな所が、良いかな」
少女は頷き、彼の手をぎゅっと握った。
こんなにも暖かいのは何故なんだろう。
「この世界も、いつか、皆が幸せになれば良いのにね」
「うんっ」
彼の言葉に大きな声で少女が返事をした。
彼は少女を見て微笑み、
「この世界の皆が、君みたいだったらよかったのにね」
「ふぇ?」
少女は小首を傾げた。栗色の髪の毛が、柔らかく、揺れた。
「君に言うのも、変かもしれないけど、ね」
ゆっくりと、しかし大きく、深く息を吸った彼は、同じスピードで呼気を吐き出した。
それっきり、彼は目覚めることなく、深い、深い眠りに着いたのだった。
少女は彼の少し上の虚空を見つめると、意を決したように口を開いた。そして、自分の周りだけに聞こえるかという程の小さな声で、
「お仕事、しなくちゃ」
呟きの直後、残ったのは濁った空と洗濯機の回る音だけだった。
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