見守る、と言う事.
「ねぇ、キミ、私と一緒に住まない?」
橋の下で打ち捨てられたダンボールの上に座っていた俺は、怪訝に眉根を寄せて声の主を見上げた。何を血迷った事を言ってるんだ? この女は。
橋の下のダンボールが俺の家。世間的にはホームレスと呼ばれているんだろうが、俺も今年で二十四だ。こんなところで慰めの一言をかけて貰うつもりも、同情して欲しい訳でもない。
俺は半眼でその女を見上げた。年の頃は二十歳くらいだろうか。清楚な感じのする白のスーツに身を包み、顔には満面の笑みを浮かべている。哀れみの感情の一欠けらも無い。まぁ、期待していた訳じゃないが。こんな所にはまったく縁の無さそうな女だと言う事は確かだ。
「ねぇ、聞いてる?」
なおも聞いてくる女から視線を外し、俺は決して清流とは言えない河川に視線を移した。一昔前までは第一級河川に登録されていたこの川も、今となっちゃ、ただのドブ川だ。
「ねぇってば」
食い下がってくる煩い声に、俺は視線を戻した。第一、ボロボロの俺の何処が良いんだ、この女は。
「…………」
無言で返す俺を見て、彼女は首を傾げた。何かに気付いたように、俺を見る。大きな瞳が初めて切なそうに揺れた。見間違いだと良いんだが……。
「キミ、喋れないの?」
俺は黙って頷いた。女に対しては敵意を拭い去った訳じゃない。俺に触れようとでもするのならば、即座に川に突き落としてやる。
「そうか……。そうなんだ」
哀れみの視線に変わりつつある女の瞳を俺は睨み付けた。第一そんな目で見られるほど、俺は腐っちゃいない。自分の事が哀れだとは思っていないし、ここまで一人で何とかやってこれた。今更誰かに助けを乞うて生きてくなんて、俺の心が許さない。
俺が声を失くしたのは、親のせいだ。俺を捨てた親。二年前に捨てられ、帰るべき場所も、生きていく為に必用な物さえ失って今に至る。その時からだ、俺の声が出なくなったのは。
『出さない』んじゃない。『出せない』んだ。
「それじゃ、仕方ないか」
女は立ち上がり、ゆっくりと俺から離れていった。
そうだ。それで良い。俺はもう一度河川に視線を戻すと麗らかな午後の陽気を浴びながら、目を細めた。丁度良い。このまま昼寝でもするか。
ポカポカと暖かくなってきた空気。俺はひんやりとした橋脚を背に目を閉じた。
「あ、起きた」
ぼーっとした意識のまま俺は、顔を擦った。二、三度、瞬きをし、明らかに違う景色に驚愕する。此処は何処だ?
周りを見渡す。先程まで俺が居た端の下ではない。明らかに生活観のある部屋の中。テレビ、冷蔵庫、机にエアコン。少し離れた所に有るアルミラックの棚にはいくつかの写真が飾られている。
「お〜はよっ。ミルクでも飲む?」
この女、やりやがった!!
俺は枕代わりにしていたクッションを跳ね飛ばして立ち上がった。女を睨み付ける。
車でも使ったのか? 強引に俺を此処まで連れて来たらしい。なんて女だ。
「やだなぁ、そんなに睨まないでよ。あ、名前聞いてなかったよね? ……って言っても、話せないんだっけか」
俺の意思とは無関係に話しを進める女の態度に、俺は頬を引きつらせた。どうにかしてここから出たい。俺の家は、あの橋の下だ。
「それじゃ、呼びやすいように、名前付けてあげるよ。……ん〜、テツ、そう、テツなんてどうかな?」
テツ? ふざけるな。俺の名前は――。俺の名前は……。おかしい、俺の名前、何だっけ。
あぁ、そうか。物心ついた時から、俺は『おい』とか『お前』って呼ばれてたんだ。
俺に、名前は無かったのか……。
「テツ、テツ、うん。いいね。私はカナ。よろしくね。テツ」
何度か俺に付けられた名前を呼び、満足したのか頷いて笑うカナに、俺は脱力した。足の力が急に抜け、その場にへたり込んでしまった。
気付いてしまった。自分が生まれた頃から必要とされていなかった事に。もしかしたら、目の前に居る彼女が俺の名付け親なのか? 無性に笑いが込み上げてくる。こいつが親か。俺より年下に見えるこいつが。
「はい、ミルク」
俺は目の前に出された湯気を立たせている乳白色の飲料にたじろいだ。……熱そう。
意を決して口をつけるが、案の定、舌を火傷した。
カナとの奇妙な同居生活が始まってから二週間。カナは規則正しい生活をしていた。
朝の七時には起床。身だしなみを整え、朝食。その後に会社へと出勤。カナがどんな仕事をしているのかは知らなかったが、この前会議の資料を盗み見た時、プログラム関係の仕事をしているのではないかと言う曖昧な結果に至った。まぁ、俺には関係の無いことなのだろうが。
俺は俺で今までと変わらない日々を過ごしていた。昼間は特にやることも無く、寝て過ごすのがほとんど。カナが帰ってきてから夕食を済ます。そして少し話してから寝る。
自堕落的だなぁ、とは思うが、実際の所、ほぼ二年間こんな生活を続けてきていたのだ。簡単に変えられるもんじゃない。
そんなある日、カナは二人の見知らぬ人達を連れて来た。
俺は警戒した。全身の感覚を研ぎ澄ましていく。実際にホームレスの生活をしていた時は常に緊張の連続だった。久々の感覚に、俺は反射神経が鈍っていないかと心配になったが、何とかいけそうだ。さぁ、俺を連れて行こうとするのなら、やるがいい。俺は簡単にはお前らの手には捕まらないぞ。
「へぇ、これがカナのルームシェアの相手?」
ん?
「可愛い顔してるじゃない」
長身の男に次いで口を開いた短髪の女に、俺は首を傾げた。ルームシェア?
「そう。何か有って喋れないらしいんだけど、可愛いでしょ」
答えるカナに俺は眉根を寄せた。二十四の男に対して『可愛い』だと。俺は普段寝床にさせて貰っているソファから離れ、カナの寝室へと向かった。この場には居辛かった。
とにかく俺は無言でダイニングから出て行く事だけを考えていた。ただでさえ知らない人物と話をするのは苦手なのに、その対象が一気に三人に増えた。関わりたくなかった。
二時間程した頃だろうか。
俺がカナのベッドで横になっていると、カナが入って来た。直接的に見た訳ではないが、直感的なものだ。足音、だろうか。すぐにカナだとわかった。
友人の二人は帰ったのだろう。さっきまで騒いでいた声はすっかり無くなっている。
変な体勢で寝たからだろうか右足が痺れている。俺はジンジンとした足の痺れに顔をしかめた。
「テ〜ツっ」
ぼふっと飛び込んでくる。ベッドのスプリングの反動で俺はベッドから落とされそうになったが、俺の体をカナの両腕がやんわりと包み込んだ。何すんだ、離せ。
少し暴れてみるが、離そうとはしないらしい。俺は渋面になりつつ、カナを見た。
赤く上気した顔で俺の事を見つめている。酒くさい。飲んでやがったのか。
「良かったね。可愛いって〜」
きゅっと抱きしめてくる。俺は眉根を寄せた。今年で二十四だぞ? 可愛いなんて言われても嬉しくも何とも無い。
「こうやってテツと一緒に寝るの、初めてだね。これからはこうやって寝ようか? ん〜、テツの足冷たくて気持ち〜」
俺の足に触れクスクスと笑いながら言うカナに俺は肩を落とした。とんでもない。俺の気が休まる暇が無くなる。……頼むから抱きしめるのはやめてくれ。苦しくてかなわない。っておい、
すぅすぅと寝息を立て始めたカナに俺は溜息を吐いた。もしかして、朝までこのままか?
絶対この女は俺の精神衛生上、良くない。
眠れぬ夜が更けていった。
カナとの同居が始まって一ヶ月が経った。
俺はもう日課となった昼寝を済ませ、カナが帰ってくるであろう時間にボーっと外を見ていた。無論、カナの帰り、と言うより、夕食の帰宅を待っていると言った方が良いかもしれない。
ドアが開く音がして、俺はカナを迎える為に玄関に向かった。たまにはこういうのも良いかもしれない。
かくん。
(?)
不意に足から力が抜け、その場に座り込んでしまった。暫く自分に何が起こったのか分からず、俺はその場で固まっていた。体を動かす。――いや、普通通りだ。何だったんだ? 今の。
俺は体に感じた違和感を無視してカナを出迎えた。その後ろには、この前遊びに来た長身の男が居た。
「ただいま〜。テツ」
「お邪魔するよ、テツ君」
俺は訝しげに長身の男を見上げた。何なんだこいつ? 馴れ馴れしい。
胸中に浮かんだモヤモヤに俺は疑問を覚えた。何だこの感じ? 何か、この男、気に食わない。いや、カナもカナだ。何でこの男を家に連れて来た?
俺は身を翻し、先程まで昼寝の安眠を貪っていたソファへと向かった。夕暮れの赤い風景が、やけに眩しい。俺はソファに座ると、キッチンに並ぶ二人を見上げた。
何だこの雰囲気? 俺は出ていった方が良いのか? 何だか場違いな所に居るような気がする。
暫くして、俺の横にあるテーブルに色とりどりの皿が置かれていった。スープ、サラダ、スパゲティ。そうか。二人で食事会か。
例外なくテーブルの上には俺の分も乗っているが、食欲が無かった。俺はカナが開けたベランダへと続く窓から外へと出た。やるせない気持ちが胸一杯になり、俺は夜の風を感じた。
いつになっても夜の風は変わらない。生まれてから、ずっと。
「あれ、テツは?」
室内のカーテンのせいで外の光景までは伺い知れない。俺はカナの声を聞きながら外の世界を眺めていた。ここ二年、俺が親に捨てられてから、この街は随分と変わった。ビルやマンションは立ち並び、空気ばかりが汚れていく。俺は不意に、あの橋の下に行きたくなった。見てみたい。今はどうなっているのか。
カナの部屋は二階。一度中に戻り、玄関から外に出るのが妥当なのだろう。だが、あの二人を見たくなかった一心で、俺はベランダから下の塀に向かって跳び下りた。
上手く着地を決め、俺はそこから地面に降り立つ。カナの部屋を見上げ、今後戻る事は無いかもしれない、と、心の中で呟いた。
俺の昔の家、一ヶ月しか経っていないが、一年以上ここに来ていないような気分で、俺は橋の下を眺めた。俺が寝床にしていたダンボールは、無かった。
俺はゆっくりと橋脚に背を預け、横になった。ドブ川は前と同じように流れ続けていた。
どれくらいそうしていただろう。俺は時間を忘れて段々と暮れていく河川を眺め続けていた。今日からここでまた暮らすことになるかもしれない。俺はゆっくりと目を閉じた。
一ヶ月と言う短い間だったがカナとは色々有った。
風呂に強引に入れられた。
仕事が上手くいかず悩んでいるカナを、俺は見ている事しか出来なかった。
生まれて初めてケーキと言うものを食べた。とにかく甘かった。
友人を紹介された。
可愛いと言われた。腹が立った。
一緒に寝た。俺は眠れなかった。
俺は、とてつもなく密度の濃い一ヶ月を過ごして来た。この一ヶ月が、親から捨てられた二年間よりも長い気がした。
何故だろう、とても眠い。
「テツ〜!! 居るの〜?」
遠くからカナの声が聴こえた。
「テツ〜?」
ひょっこりと橋の下を覗くカナを見て俺は息を呑んだ。バレた?
「やっぱりここに居た」
俺は眉根を寄せた。何故俺を探した? ルームシェアの相手だから? あの男は来てるの? カナは何でここに来たの?
言葉に出来ないことが、これ程までに苦しいことだとは思わなかった。問いかけたい、答えを聞きたい、切ない気持ちばかりが募ってくる。
でもこれは仕方の無い事。俺は、話せないんだから。
カナは俺の横に座り、俺と同じように川を眺めた。唐突に口を開く。
「あのね、さっきの人、私の恋人なんだ」
へぇ。
その言葉はあっさりと、何故かは分からないが、あっさりと理解する事が出来た。
「それでね、来年の六月に、結婚しようって、さっき言われちゃった」
ジューンブライド、ね。良いじゃない。
俺はカナを見上げた。風に揺れた髪をかき上げるカナの左手、その薬指に光る、指輪。
きゅっと胸が締め付けられる。もしかして、俺は……。
「それで、テツ。貴方にも彼が挨拶したいっ、て。ルームシェアしてた同居人にも報告したいんだって。だから、帰ろ?」
カナが立ち上がる。次いで俺も立ち上がった。
カナの顔を見る。幸せそうな微笑。そうだ。俺は彼女に、恋を、していたんだ。
俺は喋れない。手話なんて器用な真似も出来ない。俺は、この想いを一生胸に秘めて――
かくん。
(!?)
俺の体が急激に力を失い、地面に倒れた。
「テツ?」
何だろ、体に力が入らない。それどころか、どんどん、力が抜けてくみたいな。
「テツ? どうしたの? テツ!?」
カナがしゃがみ込み俺の体を揺さぶる。頼む、頼むからそんなに悲しそうな声を出さないでくれ。
意識が混濁していく、真っ白な光に包まれ、次の瞬間、ブラックアウトした。
俺が意識を取り戻したとき、俺はカナの部屋に居た。
カナと共に心配そうに俺を見下ろしている、あの男もいる。
「ねぇ、テツは大丈夫なんだよね? 医者でしょ? 分かるよね?」
男に聞くカナ。男は、静かに頭を振った。
「心筋症の末期だよ」
そっか。……やっぱし。
「そんな……」
項垂れるカナの肩に男はそっと触れる。俺はカナと男の顔を交互に見た。
男の方に視線を留めた。頼む、カナの事、幸せにしてやってくれよ? 俺じゃどうも出来ないんだから。喋れないし。
第一、俺は、猫だから。
人間は人間でしか幸せに出来ないだろ? どうあがいても、俺の寿命は人間と同じには出来ないし。まぁ、二十四という若さで死ぬのも、どうかと思うけどな。それでも、ずっと、一緒に居ることは出来ないんだ。別れが、少し早く来ただけだよ。
男は、まるで俺の言葉が分かったかのように頷いてくれた。ありがとう。カナを、頼む。
俺は段々と重くなってくる体を強引に奮い立たせ、カナを見た。
止め処なく零れるカナの涙に、俺は思わず半眼になってしまった。頼むから、泣かないで。
ありがとう。
本当は、俺、この世界なんか、さっさと無くなれば良いなんて、ずっと考えてたけど、今は、永遠に続いて欲しいって思う。もしかしたら、また何処かで逢えるかもしれないだろ?
それに、あの時カナに強引に連れて来られて、最初は、何だこいつって思ってたけど……。
カナは俺に名前をくれて、一生懸命愛してくれた。ありがとう。
だから、幸せに、なって。
『大好きだよ、カナ……』
「テツが……ないた!?」
驚愕に目を見開いたカナの顔が見えた。
そっか。俺、やっと喋れたんだね。
段々と意識が薄れてくる。カナの顔が段々とその輪郭を崩し、白い光に解けていく。
――あぁ、神様。生まれ変わるなら、俺、カナの子供が良いな……。そしたら、俺のほんとの親になってくれるだろ? 名付け親じゃなくて。
――そしたら、また呼んでくれないか? 『テツ』って……。
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