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 トラックの魔物


 一歩一歩踏み込む毎に、右足、脹脛の辺りを引き攣るような痛みが走る。今、距離は二千五百メートル。
 やっと折り返したばかりだと言うのに、思った以上に右足の怪我は酷かったらしい。このまま走り続けるのが困難になってくる。息が上がる。痛みに集中力を欠かれ、呼吸が乱れた。
 同じ景色を何度も見るトラック走は、普段走る五千メートルをいつもより長く感じさせる。
『トラックには魔物が棲んでいる』
 不意に高校時代の恩師の言葉を思い出した。
 魔物が宮田の右足に鋭い爪を突き立てているイメージが浮かんだ。奥歯を噛み締め、それを振り払うかのごとく、宮田は足を進める。
「負けんな!! 宮田ぁっ!!」
 ギャラリーから、二之宮の声が聞こえた。『負けるな』か。…簡単に言ってくれる。
 宮田は止まる事無く足を送り続けた。痛みは依然引かない。むしろ酷くなっているような感じさえする。
 鎮痛剤とテーピングで何とか保たせているが、宮田の右足は限界が近かった。これでも長続きした方だろうか。
 次々と序盤に抜き去った筈の相手が宮田の脇をすり抜けて行く。歯を食いしばり、痛みに耐えた。まるで、昔やっていたドラマのワンシーンみたいだ。と、我ながら自嘲してしまう。
(俺、情けない顔しながら走ってるんだろうな)
 心の何処かで、自分の嘆き声が聞こえた。しかし、足を止める訳にはいかない。脳内麻薬が出てくれれば良いのだが、痛みのせいで、それもままならない。
 ちくしょう、何でこんな時に限って痛みばかり感じやがる。
 距離を知らせるラインをちらりと見る。残り二千メートル。
 
 
 
 宮田は水色に染まる朝の町を走っていた。
 六月に控えた大会に向かっての朝練。春も中頃になってきたこの頃は、六時頃になると周りは幾らか明るくなる。冬からやっていた朝練よりも、気候も穏やかになり、走り易い。
 順調にペースを保ち、宮田は下宿している寮が有る通りまで辿り着いた。すぐには立ち止まらない。徐々にペースを落とし、最後には歩く。寮の丁度手前で落ち着いてから立ち止まり、屈伸運動を始めた。
 陸上の選手に限らず、スポーツ選手に必要なのは柔軟な筋肉。長く酷使した筋肉の活動をいきなり止めてしまうと筋肉からは柔軟性が失われてしまう。
 宮田はゆっくりとストレッチを続けた。体が十分にほぐれたのを確認して、寮の中に入る。入ってすぐ正面に掛けられている時計を確認すると、時計の針は七時半を示していた。まだ一限目には十分間に合う。
 一度部屋に戻って着替えを手に、宮田は浴室へと向かった。
 
 
 
「な〜に寝てんの。随分余裕だね?」
 二限目の英語の時間、横にいた大滝から声を掛けられ宮田は目を覚ました。ゆっくりと身を起こし、時計を見る。いつの間にか講義が始まってから三十分以上経過していることに気付き、渋面になった。
不意に出てきた欠伸を噛み殺して、宮田は大滝に視線を移した。
「熟睡してたみたいだけど、今日も朝練やってたん?」
 宮田は目元を擦り、眉根を寄せた。首を一度大きく回す。
「そう。朝五時に起きて、それから、いつものコースを走ってた」
 声を出すのが何と無く億劫だ。目を何度か瞬かせて、黒板を見る、が、既に長文が書き込んであり、写す気にはなれなかった。「う〜」と唸ってから、自分の腕を枕にもう一度寝る体制に入った。横でミミズのような字でノートを取る大滝に向け口を開く。
「ぜってぇ優勝したいからさ」
「あぁ、前の飲み会で言ってたっけね」
 大滝は頷きながら、そのまま机に頭を打ちそうになって慌てて体勢を立て直した。お互いにもう限界らしい。そう感じてはいるが、一応お願いだけはしてみようか。
「大滝ぃ、後でノートコピーさせて」
「はぁ? 俺も徹夜で小説書いてたから眠いんですけど」
 ちらりと大滝の顔を見る。…確かに目の下に凄い隈が出来ていた。
 大滝は文芸サークルに入っていたと記憶している。そう言えば二日か三日程前、授業をサボって自宅に篭り小説を書いていた事が有った。その日はサークル誌の締め切り二日前にも拘らず、スランプに陥って大変な思いをしていたらしいが……。どうなったのかは聞いていなかった。
 それにしても、大滝はよく隈を作って学校に来る。会う度そんな調子なのだから、それほど寝ていないのだろうか。宮田から見ても不健康そうな大滝の顔は、今にも上瞼が下瞼と熱烈なキスをしそうな勢いで半眼になっている。小説の執筆も大変らしい。
「宮田、ここは一つ提案なんだけど……」
 意識を失いそうになりつつ大滝が宮田に向かってそう言った。前方にかくん、と頭が揺れると同時に、大滝の文字がまた一つミミズに変わる。
 宮田はそれを聞いて身を起こす。今まさに自分が言おうとしている事と同じ事を彼は言いたいらしい。
「おう。俺も同じ事言おうとしてたと思う」
 お互いに顔を見合わせ、ニヤリと笑いあう。二人共既に眼が死んでいる為、傍から見ると異様な光景だ。
『来年、お互いまた頑張ろう』
 同時に呟き、二人は予行練習でもしていたかのように同時に机に突っ伏した。
 
 
 
 放課後。と言っても、大学ではそれぞれが別々の時間割を組んでいる為、放課後に値する時間はまちまちなのだが。
 三限で今日の授業日程が終了した宮田は、陸上部が普段練習に使用しているラバーコーティングされたトラックに出ていた。昼時の日光が暖かく降り注いでいる。校内に植えられた桜の木を見つつ、宮田はストレッチを始めた。
 トラックには自分以外の部員はまだ来ていない。その分伸び伸びと走れるのだが、如何せん一人きりではタイムもろくに計れない。他の部員が来るまでアップをしておくしかないだろう。
「さて、軽く行きますか」
 トラックに引かれたスタートラインから、ゆっくりと第一歩を踏み出す。徐々にその速度を加速させ、普段走るペースにまで上げていく。
 まずは正面に見える大きな桜の木を目標に一歩一歩を確実なものにしていく。大きくトラックを回り、校舎を視界の端に捉えながら正面に見える部室棟に向けその足を進める。先程と同じように大きくトラックを回り、正面には桜の木。宮田は二周目に入ろうとしたところで、一人、二人とトラックに入ってくる人影に気付き、足を止めた。
「宮田ぁ!! 頑張ってるな〜」
 最初に声をかけてきたのは陸上部の部長の日下部だった。宮田はそれに気付き日下部の元へ駆け寄る。
「先輩。今日は早いんですね」
「おう、就職活動もいくらか軌道に乗ったしな」
 日下部は宮田を見下ろして、その肩に手を乗せた。がっしりとした手が、肩をやんわりと掴む。
「俺達三年や四年は今回の大会には参加出来ないが、お前に皆期待している。頼んだぞ」
 ニィッと笑って言う日下部に、宮田は返事をして頷くが、誰も彼の心情を理解しようとしてくれる者は居なかった。
 ここ一週間、タイムが伸びない。
 陸上選手なら誰もが一度は感じるスランプ。宮田はそれに悩まされていた。
 自分の筋力が無いからではないか。脚力をもっと付けなければならないのではないか。体調を常に万全に保ち、且つ、先輩達の納得のいく記録を残していかなければならない。
『期待している』という言葉に秘められた無言の圧力が、宮田の精神を段々と追い詰めていく。
 記録が伸びない、期待されている。
 記録が伸びない、期待に応えなければならない。
 眉間に皺を寄せながらトラックを見つめる。何が悪いのだろう。自分の何がいけないから記録が停滞しているのだろう。宮田はゆっくりと顔を上げた。
 無邪気に吹く春の風が、宮田の髪を揺らす。
 まずは、動かなければ始まらない。宮田は日下部を睨み付ける程の勢いで見た。
「先輩、タイムお願いします!!」
 
 
 
 宮田が蒼白に近い表情で大滝の部屋を訪ねて来た頃には、夜の十時を超えていた。
 夕方近くから降り始めた雨が、今でも降り続いている。
「お邪魔します」
 律儀にも一言言ってから部屋に入ってくる宮田に向け、大滝は「おー」と、気の無い返事を返しながらキーボードを叩いていた。
「寮の風呂、壊れたんだって?」
 先程メールで送られてきた内容を宮田に確認するかのように聞くが、相変わらず大滝の視点はキーボードとパソコンのディスプレイを行き来している。その言葉に宮田は頷いた。
「そう。さっき雷の影響で停電したじゃん。その時にボイラーがイカレたらしい」
「へー」
 またも気の無い返事を返し、そこで初めて大滝は手を休めた。顔だけ宮田を見て、ふと気付く。
「お前、顔真っ青だぞ? 何かあったのか?」
 それを聞き、宮田は押し黙った。余程言いにくい事が有るのか、視線は床のカーペットに釘付けになっている。大滝は吸いかけのまま放置していた煙草を灰皿に押し付けると、溜息一つ、
「まぁ、後でゆっくり聞くから。風呂入ってこいや」
 視点をパソコンに移し、休めていた手を動かし始めた。
「…………」
 無言のまま頷くと、宮田は部屋を出てすぐの浴室へと向かった。
 
「で、何があったん?」
 風呂上りで、まだ体から湯気が立ち上っている宮田に向かって大滝は口を開いた。
「あぁ、いや……」
 口ごもる宮田に大滝は苦笑した。大滝特有の人懐っこい笑みがこぼれる。
「まぁ、無理にとは言わないけど」
 宮田は部屋の空いているスペースに座り、一度深呼吸をした。陸上関係の悩みを先輩やコーチ以外の誰かに話すのは初めてだった。今回のスランプだって、先輩やコーチに聞けば解決出来るかもしれない。しかし、彼に掛けられた期待が、それを頑なに拒否した。
 自分で何とかしなければならない。期待に応えなければならない。頼ってなんかいられない。そう思ったからこそ、陸上には全く関係無い大滝に、ありのままを話した。
「ふ〜ん。スランプ、ですか」
 ちょっと前の自分を思い出し、大滝は苦笑した。あの時は同じサークルの榊に相談した事が幸いして、スランプを乗り切ることが出来たが、今回はそうは行かない。
 何といっても、自分は陸上に関してはど素人だ。『フォーム変えたら?』なんて、気軽に言えたもんじゃない。
 たっぷり五分は考えた後、大滝は言葉を選別しながら口を開いた。
「つまり、期待に応えようとして……結果が出ない、と」
 頷く宮田に、ベッドの側面を背もたれにした大滝は顎に手をあてた。自分の一言は彼のスランプ脱出に繋がるのかは分からない。しかし、このまま宮田がスランプを抱えたまま走っても何の解決にもならないだろう。むしろ、逆に悪い方向に進むかもしれない。
 彼が欲しているのは心の拠り所。言葉でどうにか出来るかわからないが、大滝は決心したかのように口を開いた。
「あのさ……宮田は、何の為に、誰の為に走ってるの?」
 宮田は答えない。いや、答えられないといった方が今の彼には当てはまるだろう。
 押し黙ったままカーペットを見つめる宮田を見て、大滝は、まるで自分が宮田を苛めている様な罪悪感に駆られた。緊張感を振り払い、笑顔を取り繕う。
「今すぐ答えは出ないと思うよ。でも、ちょっと考えてみて」
 大滝はおもむろに携帯を取り出した。フリップを開け、誰かの番号にコールしながら煙草を取り出す。ジッポライターで火を点けると同時に、相手が出たらしい。煙草を左手で持ち、携帯を右手で支えながら相手に向かって何事か話しかける。
 宮田はそんな様子を気にも留めず、先程の大滝の問いかけの答えを探していた。
 自分は何故走るのか。先輩の為? 陸上部の為? ここまで指導してくれたコーチの為?
 答えは混沌に落ち込んだパズルのピースを拾い上げるより難しい。しかも、折角見つけたピースも、ぽっかりと空いている残り一ピースの空白には適合しない。自分の納得出来る答えが見つからない。何故走る? 何故――
「宮田」
 大滝の声で我に返った宮田は、まじまじと大滝の顔を見つめた。大滝はそんな宮田の様子を見て不審そうに宮田を見返す。
「そんなまじまじ見るなよ。まさか、俺に惚れたのか!?」
「馬鹿言うな」
 先程とは打って変わって真顔でアホらしい言葉を返してくる大滝に宮田は笑った。しかし、それもどこか空虚な笑み。
 大滝はそれを見て口元を綻ばせる。宮田の精神的な苦痛は分かる。しかし、ここで大滝までもが考え込んでしまったら、場は沈んでいく一方だった。
 それなら、楽しい方が良い。
「二之宮が来るらしい。大会は六月だろ? まだ大丈夫だな? 盛大にやろうぜ」
 親指と人差し指でCの形を作り、そのまま口元で手首を返す。
「さ、酒?」
「もち。沈んだってしょうがないだろ? パーッとやって忘れちまえ」
 大滝は笑いながら立ち上がり、室内に置いてある食器棚へと向かう。宮田の背を、冷たい汗が流れた。
 大滝、二之宮の二人と出会ってから、何かにつけて宴会はやっていたのだが、この大滝という男は、洒落になら無いほど酒に強かった。弱い癖に飲みたがる二之宮と、全員が酔うまで酒を勧め続ける大滝。以前宴会をした時の記憶が蘇る。沸き起こる恐怖が宮田の胸中を駆けた。
 宮田が何やら意見しようとするが、大滝はそれを尻目に、帰省した時に買ったという大型のサラミとナイフ。次にタンブラーを取り出した。
 タンブラーを宮田の前に置く。
「いや、俺は」
『遠慮しておく』という言葉が出ないうちに、インターホンが鳴らされた。二之宮だろう。
「はいよ。開いてるよ」
 楽しげに言う大滝の声。二之宮が部屋に入ってくる。
 かくして、逃げられない宴会が始まった。
 
 
 
 五月も半ばに差し掛かった夕暮れ時の町並み。宮田はいつもとは少し違ったルートを走っていた。
 大滝に問われた質問の答えはまだ出ない。この頃は答えを探しながら、がむしゃらにトレーニングに励むようになっていた。
 それが良い事とは思えないが、今はとにかく体を動かしていたい。自分の心の中に在るパズルのピース。その最後の一つを見つけるまでは、とにかく体を鍛え抜き、大会に備えておきたかった。
「はっ、はっ、はっ」
 呼吸に合わせ足を進める。
 すっかり緑に染められた木々を視界に入れながら、町を走るロードラン。ラバー加工されているトラックとは違い足にはかなりの負担がかかるが、宮田はロードランの方が好きだった。
 季節によって移り変わる町並み。遊びながら帰路を行く小学生達。同じ所を周るトラック走では味わえない変化を感じることが出来る。
 対向車線側の歩道に目をやると、こちらへと向かってくるジャージ姿の中年男性を見つけた。相手もこちらに気付いたらしく、擦れ違い様に宮田に向け軽く手を上げ会釈をしてきた。宮田も軽い会釈で返す。
 男性が何の為走っているかは分からない。自分の健康の為かも知れない。もしかしたら宮田と同じで六月の大会に出場するのかも知れない。
 しかし重要なのはそこではなかった。同じランナーとして、互いに挨拶を交わした。目的がどうであれ、同じ事をしている仲間意識のようなものが芽生えたのかもしれなかった。
 宮田は心の奥に暖かい物を感じながら、寮へと足を向けた。
 しかし、その時だった。
 ビキッっという電気にも似た鋭い衝撃を右足に感じ、宮田はその場に転倒した。一拍遅れて鋭い痛みが右足の脹脛を走る。
「――〜っ!!」
 声にならない声を上げ、宮田は右足を押さえた。
 攣った? いや、それより事態は深刻かもしれない。
 コンクリートの塀に手をつきながらゆっくりと立ち上がる。足の痛みが一度引くまで待ち、右足を引きずりながら最寄の友人の家を探した。幸か不幸か大滝の住んでいるアパートが目に入る。宮田は部屋の前まで行き、インターホンを押した。
 
「肉離れだな」
 大滝は事情を聞き、冷凍庫から氷を取り出す。ビニールの袋にそれを詰め込み、タオルを一度巻いた脹脛にあてがう。その上から包帯で固定し、応急処置を施す。手には高校時代の保健体育の教科書。
「こういう物は捨てずに取っておくもんだな。ここまで役に立つ時が来るとは……」
 半眼でうんうんと頷きながら痛みに呻く宮田を見た。何をどうしたら中学から陸上をやっている男が肉離れ等と言う怪我をしてしまうのか…。過去一度も肉離れにはなった事が無いと言う本人の言葉を先程耳にし、余計に情けなさが心の中に広がった。
 肉離れを過去にやってしまっているのならば、再発し易くなってしまう可能性があったのだが。どうも、今回の怪我は宮田本人に原因があるらしい。
「宮田、お前、この頃顔出さないと思ってたら…。がむしゃらに練習してやがったな?」
 確かに洗練されたスポーツ選手でさえ、こういった突発的な事故に悩まされるものなのだが、宮田の場合は違った。自分に襲い掛かる精神的な圧迫から逃れる為に、知らず知らずの内に体の許容量以上のトレーニングを酷使してきたのだろう。
 そして、ついには耐え切れなくなった脹脛の筋肉が、叫び声を上げた。と、言う訳だ。実際のところ、成るべきして成ってしまった結末だろう。
「動けるか?」
 宮田は大滝に肩を借りながら、立ち上がった。そのまま最寄りの病院へと向かう。すぐ近くに病院が在った事が幸いした。大滝の応急処置が良かったという事もあり、大事には至らず、宮田は病院の一室でベッドに寝かされていた。
 ドアが開く音がして、大滝が姿を現した。相変わらず渋い顔をしている。
 大滝は宮田のベッドの横に有る小さなテーブルに宮田の携帯電話を置くと、宮田を見た。宮田は、そよそよとそよぐ風を感じながら、木々の緑が多くなった町並みを眺めていた。
 何処か虚ろげな彼の双眸が大滝の目に入った。
「陸上部の部長には連絡しておいたぞ。すぐ来てくれるらしい」
「悪い……」
 宮田は視点を動かさないまま答え、沈黙が降りる。
 大滝は溜息を吐き、宮田の顔から視線を外した。
「考え直しな。自分が何で走っているのか。俺はお前じゃないから、それが何でかは分からないけど、答えは、きっと側にあると思う」
 大滝は踵を返した。病室のドアを開け、廊下に出る。
 宮田は、まだ戦える。……いや、戦うだろう。
 それだけが大滝の心の中を占めていた。理由は分からない。しかし、あいつは六月の大会に絶対に出る。
 たとえ、走れなかったとしても、だ。
 そうじゃなかったら、あいつは一生、心のジグソーパズルを完成させる事は、出来ない。
 
「宮田、大丈夫か?」
 いつの間にか宮田は眠ってしまっていたらしい。突然開いたドアに意識を覚醒させられ、首だけでそこを見ると、日下部が息を切らせて立っていた。
「はぁ。まぁ、一応は」
 曖昧な答えに、日下部は苦笑した。しかし、すぐに眉根を寄せて宮田の右足を見た。
「宮田、残念だが今回の大会は諦めよう。肉離れの完治は、軽症でも一ヶ月はかかる。それから調節するんじゃ、間に合わ――」
「先輩、リハビリってどう言う事をするんですか?」
 日下部の言葉に割り込むように宮田は口を挟んだ。その声は揺ぎ無い強さを持っている。
 日下部は顔色を変えた。宮田のしようとしている事を直感で理解してしまったのだ。
「宮田、お前まさか」
「大会には出ますよ。もう少しで、答えが見つかりそうなんです」
 
 
 
 二之宮は眼鏡を掛け直しながら、真剣な眼差しで思案に暮れる大滝を見つめていた。
「ここで、一つ大きなイベントが起こった方が……。いや、やっぱり」
 文字を入力しては消し、また入力しては消す。その横では中程まで灰になっている煙草が延々と煙を吐き続けていた。
「なぁ」
「うー、やっぱしここら辺でフラグ立てとかないと、後から話が分からなくなるな」
 思い出したように灰を落とし、一度紫煙を燻らす大滝。眉間には皺がよっている。
 煙草を手にしたまま、右手と左手の薬指だけでキーボードを叩き続ける。
「おい、聞いてる?」
「んー?」
「宮ちゃんの見舞い、行かなくて良いのかな? 日下部さんが言ってたけど、リハビリ始めたらしいんだ」
「んー」
「宮ちゃんも優勝したがってたし。見舞いって言うか、応援に行こうかって」
「あー」
 大滝は煙草を灰皿に押し付け、虚空を見つめた。
「『――変に感じた』いや『――違和感を感じた』の方が良いのか?」
 視線を戻し、キーボードを叩く。
「聞いてる? 大滝っち!!」
「あー、聞こえてるよ、うるさいな〜」
 大滝はキーボードを叩く手を止め、二之宮を見た。体をベッドの側面に預け、大きく溜息を吐く。二之宮の真剣な顔がそこにあった。
「見舞い? ほっとけって宮田の事は」
「何でだよ」
 声に怒りを込め、二之宮が大滝に食って掛かった。大滝はこの頃さらにやつれた頬を擦りつつ、二之宮の鋭い視線を受け流した。やってられない。本当に。
「あのな、宮田が過度の期待を受けて精神的にボロボロになったってのは、前に話したよな?」
 頷く二之宮に怪訝な顔をして、大滝は溜息を吐いた。こいつは、本当に分かっているんだろうか。
「『期待されたくない』奴を応援してどうする。あいつはあいつなりに頑張ってるんだ。お前がやろうとしているのは、鬱病患者に『頑張れ』って言うようなもんだぞ」
 パソコンがスクリーンセーバーを映し出したのを横目で確認し、大滝はげんなりと肩を落とした。折角筆がノッてきた所だったのに……。やる気が加速度をつけて萎んでいく。
 煙草を取り出し、火を点ける。最初の紫煙をゆっくりと吐き出してから、大滝は二之宮に煙草を一本差し出した。二之宮は煙草を受け取り、咥える。大滝が点けたままのジッポライターを二之宮に差し出すと、煙草に火を点け、大滝と同じように最初の紫煙を吐き出した。
「宮田は今、自分なりの答えを出そうと必死になってる。応援するのはその後からでも良いだろ」
「まぁ、な」
あっけらかんと言う大滝に二之宮は不承不承頷いた。大滝の部屋に掛けてある犬の写真がプリントされたカレンダーを見る。六月はフレンチ・ブルドッグだ……可愛い。――じゃなくて……。視線を落とし日付を見る。二十日を赤い丸が囲んでいた。後、十日しかない。
「宮ちゃん、走れるようになったのかな? 本人は軽症だって言ってたしな」
「いや、軽症じゃないぞ」
 大滝は二之宮と同じようにカレンダーを見て呟いた。二之宮が首を傾げながら怪訝そうな目で大滝を見ている。
「医者が言っていたが、どちらかと言えば中等症レベルだ。最低五、六週間は走れない。先月の中頃にやったから、まだ無理だろうな」
 冷静に言ってのける大滝に、二之宮は口をパクパクさせつつ、
「間に合わないじゃん」
「ん〜、そこが難しいんだよな。でも、あいつならやってくれるような気がする」
 複雑な表情で言う大滝を見て、二之宮の頬を汗が一筋伝った。
 
 
 
 大会当日。曇天は午後になると晴れに変わり、強くなってきた日差しがトラックの温度を上昇させている。
「いいか、ここまで来れたのが奇跡みたいなもんなんだ。やばいと思ったら、すぐ棄権するんだ」
 日下部は宮田の顔を見て重々しい口調で言った。
 宮田の右足は、回復、リハビリは順調に行ったが、軽いランニングには至らなかった。そんな状態のまま大会出場。再発率はかなり高いと、医師も言っていた。
「はい」
 宮田はストレッチを続けながら答えた。不思議とその瞳には不安が無い。
 テーピングと鎮痛剤は大会前にしっかりやっておいた。これで駄目なら仕方が無い。宮田はゆっくりと辺りを歩くと、透き通るような青空を見上げた。やはり、自由に歩けるというのは素晴らしい事だと実感する。怪我をする前まではこんな事は考えても見なかった。
『男子五千メートル、トラック走を開始します。選手の皆さんはスタートラインに集合して下さい』
 放送が流れ、宮田はスタートラインへと足を向けた。いよいよだ。
「宮田!!」
 声に振り返ると、そこには二之宮と大滝が立っていた。一ヶ月以上全く見なかった二人の顔。懐かしささえ感じられた。
「頑張れよ!! 応援してるからさ」
 二之宮に手を上げて応える。
「答えは……自分なりの答えは見つかったのか?」
 大滝の言葉に笑顔で首を振った。実はまだ見つかっていない。
 走る事を禁じられ、松葉杖無しでは歩くこともままならない生活を越えて、宮田は何かを掴めそうな気がしていた。
「今から、見つけてくる」
 短く答え、宮田はスタートラインに立った。過酷な自分との戦いが、始まる。
 
 パァン
 
 乾いた火薬の炸裂音と共に、横一列に並んだ十五人が一斉に走り出した。序盤で基本のペースが決まる。宮田は周りに合わせながら自分自身の右足に驚愕していた。
(ここまでいけるなんて。思ったよりいけるかもしれない)
 軽症だと自分に言い聞かせリハビリは続けてきた。自己暗示が上手くいったんだろうか。いや、それよりも今までのリハビリに手を貸してくれた日下部部長のお陰だろうな。
「OKOK!! 宮田、良いぞ〜!!」
 大滝の声が耳に入ってきた。まだいける。
 序盤から大きく離されていくことも無く、走者は団子状態になっていた。一定のペースを保ちつつ走る事が段々と苦しくなってくる中盤に向けて、宮田は息を整えた。
 千五百メートルラインを確認し、宮田は周りを見渡した。自分の前には五、六人が先行している。その後ろ、自分を含む第二グループには七、八人。早くも遅れ始めた二人が、じわじわと第二グループから離されてきている。
 大きくトラックを回る。
 代わり映えの無い景色に、鬱陶しさすら感じられる。残り三千メートル。
 二千メートルまでは安定した走りが出来た。しかし、自分の足の限界は知れない。宮田はいつ自分の足が限界を迎えるか分からない恐怖に、口元を歪めた。
 徐々にペースを上げる。五千メートルトラック走終盤のラストスパートに向けて、エンジンを段々と始動させていく。この際、恐怖感なんて捨てちまえ。ほんとに怖いのは自分が諦める時だ。
 二千二百メートルに差し掛かった時、グループに異変が起きた。第二グループの先頭を行っていた選手が突如スピードを落としたのだ。これを好機に、インを占有していた先頭の選手をアウトから抜いて行くべく、宮田は進行方向を少し外側に向けた。
 
 ぴき
 
(!?)
 とても小さかったが確実に走った右足の苦痛の声。宮田の体を、発熱による発汗では有り得ない冷たい汗が流れた。走るペースは変わらなかった。良かった、そこまで動揺してはいない。
 前方の選手が減速しているため、無理に加速をしなくても抜き去ることが出来た。進路をインに戻す。
(神経が右足に集中しすぎているな……)
 宮田は出来るだけ右足の感覚を切り離し、コースを見た。どうにかしてでも、これは走り切りたい。もう少しで、二千五百メートル。
 二千五百メートルを越え、宮田は胸を撫で下ろした。自分のこの状態で二千五百は走れた。後は、このペースを維持して、今まで走った分と同じ分を走るだけで、このレースは終わる。問題は、ラスト。終盤に向けてのスパートが鍵になる。そこまで諦めるなよ、俺の足――。
 
ビキィッ!!
 
(!!)
 今回の奴ははっきりと電気のような衝撃が体中を駆け巡った。右足の異変にどっと汗が噴出す。再発……した!?
 じわじわと痛みが神経を侵食していく。くっそぉ、まだ負けらんないんだって。疼くような痛みに、顔を歪める。右足の傷はこんな所でその牙を剥いた。
 まだ再発って訳じゃ無さそうだ。完全に再発しているのならば走れなくなる。このトラックに無様に転倒して、そのまま担架だ。
 宮田はとにかく前を見た。ここからどうにか走り切る。順位なんか関係無い、とにかく完走。そう、完走してやるんだ。
 歯を食いしばる。奥歯を強く噛み締め、痛みを打ち消す。
『トラックには魔物が棲んでいる』
 不意に高校時代の恩師の言葉を思い出した。
 ……確かに。今、自分の足には魔物が噛付いているのだろう。いや、爪を立てているのか?
 どちらにしても自分を食い殺そうとする事に変わりは無い。それならば、死ぬまで戦ってやる。
「負けんな!! 宮田ぁっ!!」
 ギャラリーから、二之宮の声が聞こえた。『負けるな』か。…簡単に言ってくれる。でも、まだ負けたくは無い。
 痛みが少しずつ増してくる。残り千五百メートル。
 宮田はチラリと後ろを見た。後続の選手達がじりじりと差を詰めてきている。加速してきたのか? いや、自分が減速している。
 並ばれ、そして次々に抜かされる。
「くっそ」
 小さく吐き捨て、宮田はさらに足を送った。駄目だ、ペースが上がらない。残り千メートル。
『お前は、何で走ってるんだ?』
 大滝の言葉が宮田の頭の中で響いた。あの時の、少し愁いの混じった彼の呟き。
「知らねぇよ」
『誰の為?』
「誰の為でも」
 残り九百メートル。
 周りのペースが徐々に速くなってきている。負けられない。負けたくない!!
 順位なんて関係無い。
 怪我なんかに負けたくない。
 混沌の中に手を伸ばす。もがき苦しんできた自分。期待を一身に背負ってきた自分。それに応える為躍起になっていた自分。馬鹿みたいに必死になってリハビリをやっていた自分。ロードランでの交流で得も知れぬ暖かさを感じた自分。
 恐る恐る混沌の中を探る。
 宮田は、ジグソーパズルの最後の一ピースを、拾い上げた。それは、今までのピースよりもぴったりと、寸分の違いも無く当てはまった。
「好きだから走ってるんだ!! 誰の為でもない、俺の為だ!!」
 苦痛に顔を歪ませながらも叫ぶ。右足の痛みが頭から離れない。
「魔物(お前)は邪魔だ!! 消えろ!!」
 右足に巣くっているトラックの魔物、それは己の心の弱さから生まれ出た物。宮田は自分に一喝すると、足を速めた。もう二度と上がらないと思っていたペースが上がった。いける。
 残り三百メートル。
 ラストスパートを掛けた。一気に加速する世界に、宮田は自分の右足の事も忘れてさらに加速する。先程追い抜かれた何人かの内の一人を捕らえる。横に並び、渾身の加速で抜き去った。
 目の前に見えるのはゴールの白線。
 そのラインを超えた直後、五メートル程ゆっくり減速し、その場に倒れこんだ。
 緊張の糸が切れたのだろう。脱力しきった体は言うことを聞かない。ぜぇぜぇと息をしながら宮田は空を見上げた。抜けるような青空が広がっている。今の宮田の心を象徴するかのようだった。
「か……勝てた……。勝ったんだ、俺」
 
 
 
 宮田が目を覚ますと、そこは以前入院していた病院だった。すっかり見慣れてしまった天井が目に入る。
「俺、どうしたんだ?」
 宮田がボォッと天井を眺めていると、ドアの開く音と共に見知った二人が入ってくるのが見えた。
「二之宮、大滝」
「お、宮ちゃん。目、覚めたんだな」
「おす、気分はどうだ?」
 宮田は起き上がろうとして自分の右足が固定されている事に気がついた。しげしげと眺めてから、それを指差す。
「これ、どう言う事?」
 宮田の問いかけに、大滝と二之宮は笑みで返した。
「宮田はレースの直後に倒れたまま気ぃ失っちゃっててさ、それで病院に運んだんだけど」
「先生に聞いたら、肉離れ再発してたらしいよ? しかも、前より酷いって」
 大滝の言葉に、二之宮が付け足す。二人とも何故か笑っていた。
「大会はこの後有るのか?」
「いや、暫らくは無いけど」
 大滝の問いかけに、宮田は首を傾げて答えた。大会がこの後すぐに無かったことが幸いだった。暫らくはリハビリとトレーニングが出来る。
 大滝は二之宮と顔を合わせてニヤリと笑った。明らかに何かを企んでいる笑みだ。宮田の背に寒気が走る。
「さて、完走記念に、盛大に行きますかー!!」
 大滝が高らかに宣言すると、二之宮が隠し持っていた日本酒を取り出す。
「お前ら、病院で飲むのかよ!?」
 半泣きの状態で叫ぶ宮田に、大滝は笑いながらマイクを握った様な手振りで、宮田の口元に手を寄せる。
「宮田さん、完走後の感想をどうぞ」
 宮田は困惑し、頬を掻きながら、
「あぁ、まぁ、嬉しかったです」
「それじゃ、次回大会の目標は?」
 それはもちろん決まっている。宮田は大滝と二之宮と交互に視線を合わせた。全員がその顔に微笑を浮かべている。宮田が息を吸う。それを合図に全員が声を合わせた。
 
『優勝っ!!』



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