二年ぶりの雪に、愛を込めて


 ある日、それなりに大学生のだらだらした生活を送っていた小早川淳志の元に一通のメールが届いた。タイトルは『新入生歓迎コンパのお知らせ』というもの。メールの着信音で目が覚めた淳志はもぞもぞとベッドから手探りで携帯を探り当てる。
 その日、授業もバイトも入っていなかった淳志は、寝ぼけ眼で一読した後あっさりとそれを無視し、自分の体温で温もっているベッドに再度潜り込んだ。 『どうせ出るつもりも無いから』と、普通なら返信しなくてはならないのだろうが、今はとにかく安眠を貪っていたかった。
時刻は正午。遮光カーテンが良い具合に光を遮ってくれている為、室内は暗い。
もう一度夢の中へと、その意識を滑り込ませていく。次に目が覚めるのは、メール受信から日付が変わった頃だった。
 
 
 
「あれ? こんなメール着てたんだ?」
 十六時間弱。自分でもこれほど寝られるとは思っても見なかったが、深夜一時に目を覚ました淳志は五、六通溜まっていたメールの中から、開封済みになっている一通のメールを見つけ呟く。
 カーテンを開けるが、既に夜の帳に覆われた町は電気すら点いていなかった。
この頃、日光を浴びていない事に気付き、なんとなく虚しさを感じた。
『新入生歓迎コンパのお知らせ』と書かれているタイトルに溜息を吐く。もう既に一昨日の事だが、徹夜で飲み会をやった直後だ。今すぐに酒を飲みたいという気分にはなれなかった。
 無意識の内に一度開封していたのだろう。内容までは覚えていなかった為、もう一度そのメールを展開する。宛先人は一年次に決めたクラス役員。 ……あぁ、そんな奴もいたっけ。感慨深げに頷き、淳志は本文を見た。
『来たる四月二十四日の日曜日に、私達二年D組と一年D組とで合同で新歓コンパをやろうと思います。同じ学科、同じコースを選んだ者同士、二年生は色々とアドバイスが出来ると思いますのでぜひ参加して下さい。なお、会費は一人二千円です』
 二年になるまで、イベント好きのクラス役員が幾度と無く、何かしら理由を付けてクラスのメンバーを招集していることは分かっていた。
まぁ、そのお陰で学内一結束力の強いクラスになれた訳だが。
 それらのイベントに淳志はほとんど参加していなかった。唯一参加したのは最初の方で行われたボーリング大会のみだろうか。
今までが間が悪かったというのも有る。時にはバイト、時にはサークルの合宿等、その度に謝りのメールを入れるが、どうもうちのクラス役員は頑固者らしい。説得にかなりの時間を要する上に、本人は『俺はモッコスだから』と言っていたが、東北出身の淳志にとって『モッコス』の意味すら分からなかった。
「あれ、まだ続きがある」
 メールはそこで終わっているかのように見えたが、何回か改行された後に『P.S』と書かれている文章を見つけてしまった。
後からこのメールを読み返してみたら、この時のメールが淳志の人生を大きく変えたのだと、自分自身感じてしまうのだが、淳志はまだそれを知らない。
今は『余計な物見つけちまった〜』と言う後悔の念だけが胸にあった。
 
『P.S 二年D組出席番号十二番、小早川淳志君は強制的に参加を申し渡します。担任の井関先生の許可は取ってありますので、必ず参加すること』
 
 
 
 新歓コンパとは言え、取り巻いているのは合コンと商談の嵐。
 二年生が要らなくなった教科書を格安で一年生に売り、一年生は一年生で格好良い(可愛い)先輩はいないだろうかと目を光らせている。それは二年生にも言える事で、後輩に可愛い子は居ないか目を光らせている者がほとんどだった。
 人間関係に疎い淳志は下心見え見えの合コン……もとい、新歓コンパに溶け込むことが出来ず、貸し切りになっている小さなイタリアンレストランの片隅でチビチビとウーロン茶を啜っていた。
「あんなギラギラ目ぇ光らせて……バカじゃねぇの?」
 もうちょっと性格が垢抜けていれば、あの中に入り込んで自分も女の子にメールアドレスの一つでも聞いている所なのだろうが、自分にはそんな根性は無かった。
 ふと、視線を巡らすと、自分と同じように店の片隅で何かを飲んでいる女生徒の姿が目に入った。肩辺りで切り揃えた艶の有る黒髪。あまり着飾ろうとはしていないらしい。快活そうな黒い双眸は先程までの淳志と同じように、ホールの中央付近で盛り上がっている集団に向けられていた。
 ただ、淳志と違う所は、その光景を目の当たりにして微笑んでいる所だろうか。
 淳志は自分の飲んでいるウーロン茶の入ったタンブラーを手に、彼女の元へと足を進めた。傍観者同士、何となく気が合いそうな気がした。
「あそこには、混ざらないの?」
 なんつー声の掛け方だ。改めて、自分で言った言葉に苦笑する。
 彼女はこちらに振り返り、集団に見せていた微笑をこちらにも見せてくれた。
「ワタシは、ドウモ慣れなくテ」
 妙なアクセントが耳に引っかかる。「ふぅん」と一言言って、淳志は彼女の横に立ち、集団を眺めた。
「俺は小早川淳志。二年D組の……って、クラスは同じだから分かるか」
「アツシ?」
「そう。君は一年生? だよ、ね。もし二年だったら俺、相当嫌な奴になっちゃうよな」
 彼女はクスクスと笑い、こちらに手を差し伸べてきた。 淳志は恭しく彼女の手を握る。
「ワタシはフェイ・メイリンとイイまス」
「中国の人?」
 彼女は握手した手を離し頷いた。 淳志も頷く。
「留学生かぁ…。 こっちに来て色々大変なんじゃない?」
 メイリンは「さもあらん」とばかり頷き、口を開いた。妙なアクセントがあるが一生懸命に日本語で話そうとしてくれている。
「そうデスね。 全く知らナイ土地にキテ、友達もイマセンし」
「そか。 じゃあ、なんか困った事が有ったら俺に言いなよ」
 思い付きで言ってから赤面した。まるでナンパしているような物言いだった。激しい後悔が胸中を駆け巡る。が、
「ハイ。 アリガトうゴザイマス」
 屈託の無い笑顔で返してくれた為、いくらか淳志の心は軽くなった。
 メイリンに聞いた所、彼女の名前は漢字で書くと『飛 美琳』と書くらしい。『美しい球』を示す名前に疑いも無く共感してしまった。メイリンの親もセンスが有るもんだ。
 それからあまりメイリンと会話が出来ぬまま新歓コンパは終わりを告げた。帰ろうとしてバイクに跨った淳志に向け声が掛けられる。振り返ると、少し離れた所にメイリンが立っていた。同時に彼女を取り巻く二、三人の女生徒の姿も見えた。どうやら友達が出来たらしい。
「再見〜!!」
 こちらに向かって言ってくるメイリンに手を上げて、淳志も「再見」と答えた。確か、『さよなら』とか『また会いましょう』って意味だった気がする。こんな事になるんだったら、一年次にもう少し真面目に中国語を勉強しておけばよかった。
 
 
 
 新歓コンパから数ヶ月して、淳志は夏休みを迎えていた。新歓コンパ以来メイリンに会うことも全く無く、彼女の事は淳志の記憶の中から消えかかっていた。
 夏休みとはいえ、特に帰省するでもなく、毎日バイトをしては寝ての繰り返しで過ごしていたある日、淳志は帰り道で見た事が有る後姿を見つけた。すれ違い様にその人の顔を盗み見る。……目が合った。
「アツシ!?」
「メイリン?」
 メイリンから少し行った所でブレーキをかける。ヘルメットを外して振り返ると、メイリンがこちらに向かって駆け寄って来ていた。
「アツシ、久しぶり」
 その言葉からは、すっかり変なアクセントが取れている。新歓コンパから四ヶ月程で、彼女の日本語は見違えるほど上手くなっていた。
「よお。 久しぶりだね。 元気そうで何より」
「ふふふ。 ありがと。 アツシは少し痩せました?」
 そう言われてから初めて自分の頬を触る。意識はしていなかったが確かに少し痩せたかもしれない。
「まぁ、男の一人暮らしだからな。 家、こっちなの?」
 メイリンが頷いたことを確認し、バイクから降りる。バイクを手で引きながら淳志はメイリンの歩調に合わせて歩いた。夏真っ盛りとはいえ、夜の風は心地良い。
「バイトの帰り?」
 淳志の問い掛けにメイリンは頷く。
「少し行った所の居酒屋さんで働かせてもらってるんです。 アツシは?」
「俺もバイトの帰り。 駅前の回転寿司屋でバイトやってるんだ。 今度食べに来てよ。 サービスするからさ」
 おどけた調子で言ってやると、メイリンはにっこりと微笑んだ。何故だか分からないが、ずっと彼女の微笑を見ていたくなった。
「あのさ、メイリンって留学生だろ? 確か留学生に対する奨学金とか有ったよね。 バイトする必要ってあるの?」
「えぇ。 少しでも親を助けたくって。 だから食費や家賃は自分で払ってるんですよ」
 心の底から、彼女の事を偉いと思った。自分は親の脛を齧ったまま生活している。稼いだバイト代だって、大抵は友達との飲み代に消える。自分にはメイリンの様な生き方は出来ない。
「あ、アツシ、二年生でしたよね……。 先輩って付けなきゃいけないですか?」
 黙ったまま何かを考え込んでいる淳志に向け、メイリンは話題を逸らすようにそう聞いた。
「何を今更。 呼び捨てで良いよ」
メイリンは微笑んで頷く。
二人で夏の夜道を行く。街灯に時間を狂わされたのか、蝉が鳴いていた。
「メイリンは、何でこんなど田舎の大学に来ようとしたの?」
 淳志の問い掛けに、メイリンは少し下を見て「んー」と唸りながら、考えをまとめているようだった。
「私は――」
 顔を上げて淳志を見る。端正な顔立ち、強い意志を秘めた双眸が淳志を見ている。
「私は日本と中国を結ぶ架け橋になりたいと思ってます」
「外交官とか?」
「いえ、そんなに大した物でなくても良いんです。 日本には沢山良い物が有ります。 古典や歴史的な建物。 小説や漫画だってこの国の文化です。 それを中国にももっともっと伝えたくて」
 淳志は感嘆の溜息を吐いた。彼女がここまで考えているとは知らなかった。それに比べたら、毎日を特に目的も無く浪費し、気がついたら二十歳を迎えていた自分がとても情けなく、惨めに思えてきた。
「それじゃあ、翻訳家かな?」
「そうですね。 それも良いと思います。 アツシは何がしたいですか?」
 半分予想していた事を聞かれ、淳志は黙り込んでしまった。
 自分は何がしたいのだろう。さして目的も無くこの大学に入り、将来の事など何も考えずにバイトだけをして生活して……。今が楽しければそれで良い。それが今の淳志に最も当てはまる答えだった。
「さあ、ね。 俺は夢とか持ってないな。 今が楽しければそれで良いって感じだけど……。 いつかは決めなくちゃいけない時が来るんだよな」
 淳志が自分に言い聞かせるように呟いた言葉を聞いて、メイリンは頷いた。
「そうですよ。 自分でやりたい事、これから見つければ良いじゃないですか」
 メイリンの前向きな姿勢が、淳志には羨ましかった。到底真似出来るものではない。
「あ、私はこっちなので」
 T字路に差し掛かり、メイリンは足を止めた。淳志は周りを見て眉根を寄せる。
 確かこの辺りにアパートは二つくらいしか無かったはずだ。
「家、この近くなの?」
「はい」
 その答えに驚愕する。実は結構近くに住んでいたらしい。淳志のアパートもこの近くだった。
「そうなんだ。 俺の家もこの近くでさ。 今度暇があったら遊びにおいでよ。 皆誘って飲み会とかやってもいいし」
 その言葉にメイリンは満面の笑みで頷いた。そして、思い出したかのように携帯を取り出し、
「あ、携帯の番号とアドレス、聞いても良いですか?」
「あれ、教えてなかったっけ?」
「はい。 困った事が有っても相談出来ませんでした」
 ペロッと舌を出して言うメイリンに淳志は苦笑した。自分から『なんか困った事が有ったら俺に言いなよ』とか何とか言っておきながら、携帯のアドレスも教えてないんじゃ、相談も何もしようがない。淳志は携帯を取り出し、メイリンに自分の番号を表示して渡した。
 
 メイリンと携帯の番号とアドレスを交換してからというもの、彼女とはいくらかメールのやり取りをするようになった。
去年中国語の単位を落とした、という内容の会話をしていたら、『今度教えてあげますよ』と返って来たので、嬉しさ半分の複雑な気持ちで、お礼を述べた。
 その見返りといっては何だが、淳志はメイリンに日本の文化や伝統について講義をする事になった。それだけではない。メイリンは現在の時事問題についても質問をしてくるようになった。
 これには淳志も焦った。質問されても返事が出来ないのでは格好がつかない。朝一で新聞をチェックし、普段離れがちだったニュース番組もよく見るようになった。
 
 
 
 メイリンと勉強をするようになって更に数ヶ月が経ち、大学は冬休みを迎えていた。
 新年を向かえ今年からは三年になる。就職活動も始めなければならない。
 淳志は帰省して親の元に届いた成績通知表を見て愕然とした。そこに並ぶ文字は、ほとんどが『優』二年次前期の自分には有り得ないような文字の羅列に、淳志の親も満足げな表情を浮かべていた。
 この結果を知らせてやりたい。苦手だった中国語の再履修ですら『優』が取れたのだ。自分より努力家のメイリンなら、絶対に自分より遥かに良い結果を出しているに違いない。
 淳志は予定より三日早く帰省を終わらせ、ど田舎の町に帰ってきた。遊ぶ所なんてほとんど無い。友達のほとんどが未だ帰省中だ。ただ、メイリンに会って成績通知表を見せてやりたかった。
 メイリンのアパートにバイクで向かう。一年間の後期、何度かこの家で一緒に勉強をした。
 インターホンを鳴らす。
 全く反応は無かった。二度、三度と繰り返し鳴らしてみるが、先程と同じく全く反応が無い。
「メイリーン? ……おかしいな。 居ないのかな」
 アパートの裏手に回る。道路に面しているアパートは、そこから部屋の中を伺い知る事が出来た。一階に在るメイリンの部屋を覗き込む。
「!?」
 中は蛻の殻だった。
 メイリンが中国から持ってきたCDを聞いたコンポは無かった。
一緒にニュースを見たテレビは無かった。
 生卵を爆発させた電子レンジは無かった。
 やり方が分からないと言うのでセットアップしてやったパソコンは無かった。
 あーでもない、こーでもないと討論したソファは無かった。
 一緒に参考書やノートを広げた机は無かった。
 綺麗に並んでいた小説や漫画は無かった。
 淳志は体中の力が抜け、その場にへたり込んだ。冬でも雪があまり降らないこの田舎に、ゆっくりと白い塊が落ちてくる。
「そうだ、携帯」
 淳志はもどかしげに携帯電話をパーカーのポケットから取り出し、コールした。
 少しの間の直後に流れたのは、呼び出し音ではなく機械的な音声。
『只今この番号は使用されておりません――』
 絶望的だった。まるでメイリンという人物が目の前から一瞬で消え去ってしまったかのようだった。
「あれ、小早川、お前ここで何やってんの?」
 突如掛けられた声に振り返る。そこには中背で小太りの男が立っていた。ロングコートを身にまとい、黒い手編みのマフラーをしている。
「大滝……」
 同じクラスの大滝だった。淳志は駄目元で聞いてみる。
「なぁ、大滝、フェイ・メイリンって知ってるか?」
「あぁ。 新歓コンパに来てた留学生の女の子だろ?」
 少しだけ、ほんの少しだけだが希望が湧いてきたような気がした。
「今、どうしてるか知ってるか?」
 大滝は顎に手をやって考えている。目に掛かる程伸ばしっぱなしの髪の毛を苛々し気に掻き分け、
「榊なら、何か知ってるかも。 ちょいと待ってて」
 ポケットから携帯を取り出しフリップを開ける。程なくして榊は電話に出たらしい。二言三言言葉を交わし、大滝は携帯のフリップを閉じた。
「榊が友達に聞いてみるって。 ちょっと待ってて」
 その言葉に焦燥感は増すばかりだ。
 もしかしたら、何か問題が起きてメイリンは中国に戻らなくてはならなくなったかも知れない。
 だとしたら、まだ、淳志にはメイリンに言ってない事が有る。自分がここまで良い成績が取れた事への感謝。今の自分が居るのは彼女と共に勉強してきた日々が有ったからだ。
 大滝の携帯が鳴った。榊だろう。
 電話の応対をしたまま、大滝は淳志に向かって現在の状況を話し始めた。
「何か、家の事情で中国に帰らなくちゃいけなくなったらしいよ。 荷物はちょっと前に全部送って、ここニ、三日は友達の家に泊まらせてもらってたらしい」
「いつ、中国に帰るんだ?」
「ついさっき、友達の家を出たって言ってるけど」
 淳志はそれを聴いた瞬間立ち上がった。大滝の驚いた顔が見える。
「さんきゅ。 助かった」
 淳志はバイクに跨りエンジンを吹かす。こんな田舎の町だが、何故か新幹線は通っている。裏では大学が手を回したのではないかと言う噂が流れていた。
 バイクを飛ばし駅へと向かった。現在時刻十三時ジャスト。メイリンに会える可能性は低いが、これに賭けてみるしかない。
 駅に滑り込んだ淳志は電光掲示板に映されている時刻表を見た。
 一三二三、東京行き、二番線。
 まだ何とか十分は残っていた。急いで入場券を買い改札口を抜ける。二段飛ばしで階段を一気に駆け上がり、左右を見渡した。直感で右を選ぶ。いくらか走って行くと、見慣れたセミロングの黒髪を見つけた。今時日本人でも少なくなった漆黒の髪。
「メイリン!!」
 淳志の声にメイリンは振り返った。ただ、呆然とこちらを見ている。
「アツシ!? 何で……」
「これ」
 息を荒げ、淳志は体を折り膝に手を当てて、ゼェゼェと息を吐いた。右手で成績表をメイリンに差し出す。
「中国語……『優』取ったぜ……」
 段々と息が整ってくる。淳志は顔を上げてにんまりと笑った。
「それを知らせたくて、ここまで来たんですか?」
 困ったような表情を浮かべてメイリンが聞いてくる。本当はそんな事を言いに来たんじゃない。
「いや、あのさ」
 淳志は息を整え体を戻した。真っ直ぐにメイリンを見る。
「今まで、ありがとな。 メイリンと一緒に勉強してたからこそ、こんな結果出せたんだし。 ……いや、そうじゃない。 俺が言いたいのは、えと……どうしても、帰らなきゃいけないのか?」
 メイリンは俯いた。その瞳には涙が浮かんでいる。瞬き一つで零れ落ちてしまうくらいに。
「はい。 父さんが病気になっちゃって。 母さん一人じゃ私の学費とか大変らしくて」
「こっちには、戻ってこれる、よな?」
「…………」
 沈黙の意味が、何と無く分かった。
「お父さん、そんなに悪いの?」
 メイリンは黙ったまま頷く。
「そ、か……」
 ちょうどそこに新幹線が滑り込んだ。メイリンの背後で開くドアに、淳志はもう会えなくなるという絶望感を感じた。
 メイリンは新幹線に乗り込み、淳志の方に向きかえった。大粒の涙が零れる。
「アツシ…。 私、この一年間、とっても幸せでした。 一緒に勉強したり、この国の事話したり。 最後までアツシの夢は決まらなかったし、私の夢は叶いそうも無いですけど、とても楽しかったです」
 もう一度淳志の顔を見る。
 もう二度と会えないかもしれない。だからこそ、その顔を胸に焼き付けておきたかった。
「私は、アツシの事……好きでした」
「……え」
 淳志は一瞬何を言われたか分からなかった。新幹線のドアが閉まる。
「ちょっと待て、今、何て!?」
段々と離れていくメイリンの姿をホームギリギリまで追いかけ、やっとそこで、メイリンの言った言葉の意味を理解した。その途端、ダムが決壊したかのように涙が溢れ出る。
「バカ野郎……『好きです』は『さよなら』って言う意味じゃないんだぞ」
 呟き、新幹線の進行方向を見る。
「俺はまだ、お前に何も言ってないじゃねぇか……。 俺の、気持ち」
 既に点にしか見えない新幹線を見つめ、淳志は頭の中の辞書を開いた。
「中国語ではこんな時何て言うんだっけ……再見? 違うな」
 ホームの中を吹く風はとても冷たい。
 二年ぶりに降ったと言われる雪が、淳志の頬を掠めるように舞った。
「そうだ」
 頭の中の辞書で一つの単語を見つけ出す。
 
「ウォーアイニー。 美琳。 ……再見」
 
 ホームから出た淳志は、不意に彼女と過ごした日々を思い出した。新歓コンパで始めて話しかけた事、夏休みに偶然会って話をした事。
『私は日本と中国を結ぶ架け橋になりたいと思ってます』
 メイリンの声が鮮明に脳裏で蘇ってくる。
「…………」
 淳志は虚空を眺めた。雑踏が入り混じっているノイズだけが耳に入る。
「メイリン、俺にも夢が出来たよ」
 誰に言うでもなく呟く。そして更に顔を上げた。
どんよりと曇った空から、ゆらゆらと降ってくる雪が頬に舞い降り、融けた。涙と混ざる。
「やってやるよ、メイリン。 お前の夢、俺が叶えてみせる。 それが、俺の、夢だ」
 
 
 
 五年後、淳志は外交官として中国に渡る事になる。
 あの時、本人に聞かせてやれなかった言葉を、胸に秘めて。
 
「美琳。 好久不見了」


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